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ピエール・マーチン : ウィキペディア日本語版
ピエール・マーチン

ピエール・マーチンPierre Martin、本名:Jean Gagné1947年5月25日 - )は、カナダの元プロレスラーケベック州ケベック・シティー出身のフランス系カナダ人
フレンチ・マーチンFrenchy Martin)またはフレンチ・マーテルFrenchy Martel)のリングネームでも知られ、髭面の悪相ヒールとしてカナダ各地やプエルトリコを主戦場に活動した。
== 来歴 ==
1971年1968年説もあり〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P76(2002年、日本スポーツ出版社)〕)のデビュー後、地元ケベックモントリオール地区をはじめ、カルガリースタンピード・レスリングバンクーバーのオールスター・レスリングなど、カナダの各団体で活動〔。アメリカにも進出し、ルイジアナテキサスカンザスなど、NWAの傘下テリトリーを転戦した〔。
1975年3月1日、プエルトリコWWCにてカルロス・コロンからWWC北米ヘビー級王座を奪取。同時期、同じくケベック出身のマイク・マーテルフランス傭兵ギミックタッグチームザ・マーセナリーズ(''The Mercenaries'')を結成。3月8日にWWC北米タッグ王座を獲得し、以降もプエルトリコおよびカナダ各地で活躍した。
日本へは1975年11月、ザ・コンバット(''The Combat'')のチーム名でマーテルと共に国際プロレス『ビッグ・ウインター・シリーズ』に初来日。11月3日の開幕戦でグレート草津&マイティ井上からIWA世界タッグ王座を奪取し、11月21日のリターンマッチにも勝利して初防衛に成功。12月2日の横浜文化体育館での金網タッグデスマッチによる再度のリターンマッチで草津&井上に奪還されたものの、一時はタイトルの海外流出が危ぶまれた〔DVD BOX『不滅の国際プロレス 1974-1981』DISC-2(2007年、ポニーキャニオン)〕。マーチンはシングルでの実績も評価され、シリーズ最終戦の12月4日、後楽園ホールにてラッシャー木村IWA世界ヘビー級王座にも挑戦した〔『忘れじの国際プロレス』P101(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。国際プロレスには、ジプシー・ジョーギル・ヘイズが同時参戦した翌1976年10月開幕の『勇猛シリーズ』にもマーテルとのコンビで再来日し、王座返り咲きを狙って草津&井上に連続挑戦している。
1978年に相棒のマイク・マーテルがプエルトリコにて死去してからは、1979年1月22日にマイクの弟リック・マーテルとのチームでWWC北米タッグ王座を再び獲得〔。同年4月、マッドドッグ・マーチン(''Mad Dog Martin'')と名乗って全日本プロレスの『NWAチャンピオン・シリーズ』に来日しているが、"Mad Dog" とはマイク・マーテルの異名でもあった。1980年5月23日にはミスター・フジと組んでブルドッグ・ブラワー&ルーク・グラハムを破り、WWC北米タッグ王座への4度目の戴冠を果たしている〔。1981年1月の全日本プロレス『新春ジャイアント・シリーズ』への再来日では、プエルトリコでの盟友アブドーラ・ザ・ブッチャーともタッグを組んだ。
1983年からは古巣のモントリオールやマリタイム地区を主戦場に活動。1984年7月には、当時カナダとの外国人選手招聘ルートを持っていた旧UWFの『UWF無限大記念日』に、フレンチ・マーテル(''Frenchy Martel'')のリングネームでレオ・バークザ・UFOらと共に来日。2日目(7月24日)の興行ではメインイベントで前田日明と対戦し、マーク・ルーインが外国人エースを務めた8月開幕の『ビクトリー・ウイークス』にも継続参戦した。
1986年より、モントリオールのインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)と提携していたWWFの興行に、フレンチ・マーチン(''Frenchy Martin'')の名義でヒールのジョバーとして出場。WWFが同団体を買収した1988年からは、モントリオールのトップスターだったディノ・ブラボーマネージャーを担当、当時の4大PPVレッスルマニア』『サマースラム』『サバイバー・シリーズ』『ロイヤルランブル』にもブラボーのセコンド役で登場した。
1990年の中盤にWWFを離れ、そのままレスリング・ビジネスから引退。以後は、1999年8月にモントリオールで開催された "International Wrestling 2000" のリチャード・シャラン対キングコング・バンディ戦に、シャランのマネージャーとして登場。同イベントはWWFを共にサーキットしたジャック・ルージョー・ジュニアらルージョー・ファミリーが主催し、ロニー・ガービンジミー・ガービンミシェル・デュボアなども出場した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピエール・マーチン」の詳細全文を読む



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