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鶴見俊輔 : ミニ英和和英辞書
鶴見俊輔[つるみ しゅんすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つる]
 【名詞】 1. crane (bird) (Gruidae family) 
: [じゅん]
 【名詞】 1. excellence 2. genius

鶴見俊輔 : ウィキペディア日本語版
鶴見俊輔[つるみ しゅんすけ]

鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年大正11年〉6月25日 - 2015年平成27年〉7月20日)は、日本哲学者評論家政治運動家大衆文化研究者。
== 人物 ==

=== 経歴 ===
鶴見祐輔の長男として東京市麻布区(現・港区麻布)に生まれる。外祖父は後藤新平。俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による〔新藤1994、p.12〕。厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校3年生のとき近所の中学生と組んで万引集団を結成。本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返す〔新藤1994、p.44〕。このためクラスでは除け者にされていたが、このときただ一人鶴見を庇っていた同級生が永井道雄だった〔鶴見俊輔『恩人』〕。しかし鶴見の側では永井をいじめる態度に出て、大塚駅の前でこうもり傘の柄で永井の足を引っ掛けて水溜りの中に倒し、その後で再びクラスから村八分にされることを恐れて翌日は早くから登校し、クラスの世論を鶴見側に有利に傾けるため事実の捏造をした。肉体的に早熟だったため、小学生時代から性的な思念が頭から離れず、授業中は「パンツの中でペニスが右側に入っているか左側に入っているか」を気にして上の空だった〔鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.28〕。10歳をいくつも出ない年齢で歓楽街に出入りし、女給やダンサーと肉体関係を持った他〔新藤1994、p.52〕、自殺未遂を5回繰り返して精神病院に3回入院させられ〔新藤1994、p.58〕、母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた〔宮川匡司、鶴見俊輔氏死去――権威に寄らず立ち続け(評伝)日本経済新聞、2015年7月24日、夕刊、15面。〕。当時、同校の生徒800人のうちただ1人の不良少年であることが誇りだったという。
「平常点はいつもビリに近いところにいた」ため〔新藤1994、p.53〕東京高等師範学校附属中学校に推薦されず、府立高等学校尋常科に入学するも、武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため〔新藤1994、p.75〕入学後1年1学期で同校を退学になり〔府立高等学校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然──と私には見えた──中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ四十点とか五十点とかに仕立て上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」(『遠山一行著作集』第4巻所収「集団の行為」p.196、新潮社1987年(昭和62年))と回想している。〕、東京府立第五中学校に編入学するもやはり中退。俊輔の将来を心配した父から「土地を買ってやるからそこで養蜂場を経営して女と暮らせ」と言われたこともあるが、最終的には父の計らいで1938年(昭和13年)に単身渡米し、同年9月、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス・スクールに入学。全寮制の寄宿舎で9か月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの勧めでハーバード大学に進学、哲学を専攻。ホワイトヘッドラッセルクワインカルナップに師事。大学では成績優秀で、1000人いる同級生の中の上位10%に入っていたため飛び級コースに入る〔鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.28〕。18歳の時には、当時働いていたニューヨーク図書館ヘレン・ケラーと一度会い、言葉を交わしている。この頃、ハーバードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマティズムを学ぶことを勧められる。都留は生涯の師となった。
1941年(昭和16年)12月8日に日米開戦。1942年(昭和17年)3月末、大学の第3学年前期が終わったとき無政府主義者としてFBI逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。この間、後期はまったく授業に出られなかったが、収容所から提出した卒論が受理され、19歳のときSumma Cum Laude〔ラテン語で、最上位から5-30%程度の成績での卒業生であることを意味する。〕の成績でハーバードを卒業。1942年(昭和17年)6月、日米交換船グリップスホルム」と「浅間丸」に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。ただしこれは強制退去ではなく、送還か収容所送りかの選択を迫られて鶴見自身が決めたことであった。収容所にとどまれば食事の心配がないのに敢えて帰国を選んだ理由について鶴見は「(収容所にとどまれば)敗戦後の日本に帰るときには大変に後ろめたい思いをしなきゃいけない」「アメリカに残っていたら、収容所といえども飯は結構困ることないんだよ。イタリア人のコックだし。私にとって(収容所の)飯は旨かったんだよ。だけどそれを戦争の終りまで─負けることは判ってる─終りまで、これを食い続けるのは悪いなという気がしたんだよ」と説明している〔ETV特集『鶴見俊輔〜戦後日本 人民の記憶〜』(NHK教育テレビ2009年(平成21年)4月12日)での発言。〕。
第二次世界大戦中には結核持ちであるにもかかわらず徴兵検査に合格したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願し、1943年(昭和18年)、インドネシアジャワ島に赴任。主に敵国の英語放送の翻訳に従事。福間良明の著書では「慰安所の仕事を担当させられ」たと述べられている〔福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー中公新書 1990 ISBN 978-4121019905、173p〕。1944年(昭和19年)12月、胸部カリエスの悪化により帰国。敗戦を日本で迎えた。
戦後、海軍を除隊後に、姉鶴見和子の尽力で、和子と丸山眞男、都留重人、武谷三男武田清子渡辺慧とともに7人で「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊し、同会で『共同研究 転向』(上・中・下、平凡社、1959年 - 1962年)など思想史研究を行う。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留、丸山らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。京大助教授時代、1951年(昭和26年)にはスタンフォード大学から助教授として招聘されたが、原水爆反対運動に関与したことが神戸市の米国総領事館から問題視されて米国への入国を拒否され、その後一度も渡米していない。
60年安保時には、政治学者高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対〔日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた。「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』(日ソ協会、1974年)p.96.〕。のちにこれを回想した際も「確認しておこう、あのとき、国会の中にいたトップ、岸信介首相は、A級戦犯じゃないか」と語っている〔村上義雄 『「朝日ジャーナル」現代を撃つ』 朝日新書 208 ISBN 978-4022733085、20p〕。ベトナム戦争期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成し、代表に作家の小田実を迎えて、自身もその中心的な人物として活動した。ヤマギシ会を評価しており〔別冊宝島編集部 編 『「カルト」の正体。』 宝島社文庫 ISBN 4796616853、390-391p。当該部分の執筆は春木進。春木は取材のために会いたいという旨の手紙を送ったが、返事が来なかったことを記している。ヤマギシ会を否定することは、人生の晩年における自己批判につながるため、それを避けたいのではないかと春木は推測している。〕〔別冊宝島編集部 編 『「救い」の正体。』 宝島社SUGOI文庫 [A へ-1-36] ISBN 978-4796665025、390-391p。当該部分の執筆は春木。前掲書の改版。〕、ベトナム戦争脱走兵をかくまうことに協力を得ている〔阿奈井文彦 『ベ平連と脱走米兵』 文春新書 126 ISBN 4166601261、12p〕。鶴見自身はマルクス主義者ではなく、「私は日本にいたときからクロポトキンを一生懸命読んでいた。クロポトキンにはマルクスに対する偏見がありますから、それが、私がマルクス主義者にならない、一種の予防注射になった」〔鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.24〕と述べている。反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している〔 鶴見俊輔・上野千鶴子小熊英二『戦争が遺したもの』(新曜社、2004年3月)pp.42-135.〕。 
しかし2000年代以降は、「私は参政権を持ってから、共産党だけに投票してきたことは確か」〔『しんぶん赤旗』2004年7月2日、第1面。〕と、日本共産党支持の姿勢を明確にして、九条の会の呼びかけ人にもなっている。同党を「全ての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動して歩く中で、創立以来、動かぬ一点を守り続けて来た。北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどの程度時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを測ることの出来る尺度」と評価している〔『現代日本の思想』。〕。九条の会でわかるように、護憲派の立場に立っている。福島瑞穂から対談の申し入れがあった際には、福島が参院本会議で行った長時間の演説(牛タン戦術)を見ていたという経緯から、「国会でのフィリバスター(議事妨害)に感動したので、お会いしましょう」と快諾している。議事妨害であることを認識した上でそれを高く評価しているのである〔佐高信佐高信が褒める いま、この人を見よ!』 光文社知恵の森文庫 [aさ-2-11] ISBN 4334783813、266p〕〔佐高信 『抵抗人名録 私が選んだ100人』 光文社知恵の森文庫 [aさ-2-12] ISBN 978-4334785888、47-48p〕。伊藤隆は鶴見をいいだもも飯沼二郎と並んで「進歩派」と定義している〔伊藤隆 『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』 中公新書 2317 ISBN 978-4121023179、86p〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「鶴見俊輔」の詳細全文を読む




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