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鳥居元忠 : ミニ英和和英辞書
鳥居元忠[とりい もとただ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とり]
 【名詞】 1. bird 2. fowl 3. poultry 
鳥居 : [とりい]
 【名詞】 1. torii (Shinto shrine archway) 
: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 

鳥居元忠 : ウィキペディア日本語版
鳥居元忠[とりい もとただ]

鳥居 元忠(とりい もとただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将徳川氏の家臣。下総香取郡矢作藩千葉県香取市矢作)の藩祖。
== 生涯 ==
天文8年(1539年)、松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として三河碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。
父は岡崎奉行などを務めた老臣で、元忠も徳川家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、天文20年(1551年)から近侍した〔阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P555〕。柴裕之は元忠が13歳(天文20年)から家康に仕えていたとする『寛政重修諸家譜』の記事が正確であることを前提として、弘治元年(1555年)に家康が14歳で元服して今川義元から偏諱を与えられて「松平元信」を名乗った際に3歳年上の元忠も同時に元服・偏諱授与の栄誉を受けたのではないかと推測している〔柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、P306〕。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。長兄の忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次兄の本翁意伯は出家していたため、元亀3年(1572年)に父が死去すると、家督を相続した。
永禄元年(1558年)の寺部城攻め〔、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加。諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入し、敵に発見されて銃撃で足に傷を負い〔歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P300〕、以後は歩行に多少の障害を残したものの、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいては石川数正とともに馬防柵の設置を担当する〔柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、P307〕。続いて、天正9年(1581年)の高天神城の戦いに参戦した〔〔長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P25〕。
天正10年(1582年)の天正壬午の乱では、家康の背後を襲おうとした北条氏忠氏勝軍の別働隊10,000を甥の三宅康貞水野勝成ら2,000の兵で撃退し北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦〔)、戦後家康より甲斐都留郡山梨県都留市)を与えられ、初め岩殿城に入り、やがて谷村城主となる〔柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、P309-311〕。この地域は武田氏統治時代においても小山田氏が独自の支配体制を確立していた上、北条氏との国境地域であったことから特に重臣である元忠が配置されたとみられる〔柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、P308〕。なお、都留郡でも小山田氏の支配の及んでいなかった北部地域などは元忠の支配から除外され、徳川氏に従った甲斐国衆の支配下に置かれていたとみられている〔。元忠には朱印状を含めた印判状の発給が許されたり、家康直属の奉行人と言えども元忠本人の了承なしに領内の統治に関与できないなど、家康からは一定の排他的自律性に基づく支配が認められていた〔柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、P311-316〕。
天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では〔、大久保忠世平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し〔、岩槻城攻めに参加した〔。戦後家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられる。元忠の配置は常陸国佐竹氏東北地方の諸大名の南下に対する備えであり、引き続き強い支配権限が与えられていたとみられ、その位置づけは元忠没後の鳥居氏の東北地方要地への移封につながったと考えられている〔柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、P316・321-322〕。矢作城に入ったが、城の狭あいを理由に、岩ヶ崎へ新城を築き移り住む〔佐原市役所編纂『佐原市史』(1966年)P109〕。岩ヶ崎城は佐原市岩ヶ崎字城山にあり、元忠は岩ヶ崎城を本格的に築城するために、普請奉行をきめ仕事に着手したが、完成をみずに廃城となった〔佐原市役所編纂『佐原市史』(1966年)P114〕。
慶長4年(1599年)、検地を行う。矢作領八四か村にわたる合計高約四万石で、一名「矢作縄」といわれ、それ以前より二倍半の増盛がなされた苛酷なものであった〔佐原市役所編纂『佐原市史』(1966年)P186〕。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、伏見城を預けられる。6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は3000ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」〔長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P26〕 と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる〔長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P28〕
家康らの出陣中に五奉行石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年62。元忠の首級は京橋口に晒されたが、親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が、知恩院の内である長源院に葬ったといわれている〔佐原市役所編纂『佐原市史』(1966年)P114〕。
その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は「血天井」として京都市の養源院〔 をはじめ宝泉院正伝寺源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
墓所は京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、福島県いわき市平の長源寺。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している〔歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P302〕。また元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、江戸時代にそれぞれ不行跡として改易の憂き目にあった際、いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れた〔〔長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P33〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「鳥居元忠」の詳細全文を読む




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