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上田合戦 : ミニ英和和英辞書
上田合戦[うえだかっせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
上田 : [うえた, じょうでん]
 【名詞】 1. high rice field 2. very fertile rice field 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ごう]
 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) 
合戦 : [かっせん]
 【名詞】 1. battle 2. engagement 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

上田合戦 : ウィキペディア日本語版
上田合戦[うえだかっせん]

上田合戦(うえだかっせん)は、信濃国上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏徳川氏の戦いの総称である。
この地で真田氏徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585年)の戦を第一次、慶長5年(1600年)の戦を第二次とし区別する。
上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏上杉氏後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城した。
この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい。
== 合戦の経過 ==

=== 第一次上田合戦 ===
この戦いに限り、神川合戦上田・神川の合戦とも呼ばれる。
天正10年(1582年)3月、織田信長が行った甲州征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長横死本能寺の変)し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。
甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。
10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。
翌天正11年(1583年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。
天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。
徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる〔真田信幸書状より。但し、宣伝のため過大な数を挙げたとも考えられる。翌日に丸子城を攻めた事から、「三河物語」の約300人が妥当と思われる。〕。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。
合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。
真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数ヶ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。
上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。
なお、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「上田合戦」の詳細全文を読む




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