翻訳と辞書
Words near each other
・ 関大明神社
・ 関大連
・ 関天培
・ 関太
・ 関太一
・ 関子嶺
・ 関子嶺会議
・ 関子嶺温泉
・ 関孝二
・ 関孝司
関孝和
・ 関孝和 (小惑星)
・ 関孝弘
・ 関学
・ 関学クラブ
・ 関学大
・ 関宇航
・ 関守
・ 関守稲荷神社
・ 関宮村


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

関孝和 : ミニ英和和英辞書
関孝和[せき たかかず]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せき, ぜき]
 (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

関孝和 : ウィキペディア日本語版
関孝和[せき たかかず]

関 孝和(せき たかかず/こうわ、寛永19年(1642年)3月? - 宝永5年10月24日1708年12月5日))は、日本江戸時代和算家(数学者)である。本姓藤原氏。旧姓は内山氏、通称は新助。は子豹、自由亭とした。
== 生涯と業績 ==
生年は寛永12(1635年)- 20年(1643年)の間で諸説あり、はっきりしない。生誕地は上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)と江戸の2説ある。実父が寛永16年(1639年)に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。関の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子の関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。
若くして関家の養子となり、また、吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。甲斐国甲府藩山梨県甲府市)の徳川綱重・綱豊(徳川家宣)に仕え、勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めとなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図〔孝和が作成に携わった甲斐国絵図は17世紀後期に成立したと考えられているII型図(山梨県立博物館学芸員高橋修による分類)で、甲府徳川家家中において領内統治のために作成された。正保国絵図の影響を受け、甲斐独自の地域区分である九筋二領などの情報を盛り込んだものと評価されている。甲斐国絵図については高橋修「近世甲斐国絵図論序説-山梨県立博物館所蔵甲斐甲斐国絵図との対話-」『山梨県立博物館研究紀要』(第2集、2008)を参照〕)の作成に関わり、また授時暦を深く研究して改暦の機会をうかがっていたが、その後渋川春海によって貞享暦が作られ、暦学において功績を挙げることはかなわなかった。
関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)に『発微算法』を著し、点竄術(てんざんじゅつ)すなわち筆算による代数計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。世界で最も早い時期に行列式終結式の概念を提案したことはよく知られる。
また暦の作成にあたって円周率近似値が必要になったため、1681年頃に正131072角形を使って小数第11位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159265359微弱」〔中村佳正編『可積分系の応用数理』第6章、裳華房、2000年、ISBN 4-7853-1520-2には「3.1415926535微弱」と書かれているが、村田全「日本の数学 西洋の数学」によれば「3.14159265359微弱」と書かれている。関の「括要算法」巻四には「三尺一寸四分一厘五毛九糸二忽六微五繊三沙五塵九埃微弱」の記述が見られる。〕〔微弱は桁の丸め方を示す言葉である。関の「天文数学雑著」によると「九以上収めて一としこれを微弱という、五以上収めて一としこれを弱という」〕だったが、エイトケンのΔ2乗加速法『括要算法』刊行300 年を記念して 〕を用いた途中計算では小数点以下第16位まで正確に求めている〔中村佳正編『可積分系の応用数理』第6章〕。これは世界的に見ても、数値的加速法の最も早い適用例の一つである(西洋でエイトケンのΔ2乗加速法が再発見されたのは1876年、H.von.Nägelsbachによってである〔H.von.Nägelsbach. Arch. Math. Phys. 59. (1876) 147-192.〕)。ヤコブ・ベルヌーイとは独立かつやや早くにベルヌーイ数を発見していたことも知られている(ヤコブ・ベルヌーイの仕事が公開されたのは関の死後である)。
西洋の微分積分学の発展とは独立に、方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算したり、求長・求積に関する業績を挙げている。これをもってアイザック・ニュートンゴットフリート・ライプニッツよりも前に微分積分学を創始したとするのは誤りで、関が微分法積分法を結びつけた(言い換えれば微分積分学の基本定理発見した)事実はなく、これは妥当な評価ではない〔村田 pp. 239, 251〕。
宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去した。牛込弁天町(現在の東京都新宿区)の浄輪寺に葬られている〔浄輪寺 関孝和の墓 - 新宿区観光協会 〕。弟子に建部賢弘荒木村英がいる。関の死後もその学統(関流)はめざましく発展し、山路主住に至り免許制度などを整え、和算の圧倒的な中心勢力になる。有力な和算家はほとんどが関流に属するようになっていった。
関孝和は関流の始祖として、算聖とあがめられた。明治以後、和算が西洋数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。上毛かるたでも「和算の大家 関孝和」と詠われている。

File:Seki Takakazu monument.jpg|関孝和の銅像と顕彰碑(群馬県藤岡市)
ファイル:Seki Takakazu statue 1.jpg|関孝和の銅像
File:Seki Takakazu grave.jpg|関孝和の墓(藤岡市光徳寺)


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「関孝和」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.