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野溝七生子 : ミニ英和和英辞書
野溝七生子[のみぞ なおこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [こう, みぞ]
 【名詞】 1. ditch 2. drain 3. gutter 4. gap 
: [しち]
  1. (num) seven 
七生 : [しちしょう]
 (n-adv,n-t) seven lives
: [せい, なま]
  1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

野溝七生子 : ウィキペディア日本語版
野溝七生子[のみぞ なおこ]
野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年明治30年)1月2日 - 1987年昭和62年)2月12日)は、日本の小説家比較文学者。兵庫県姫路市出身。
== 略歴 ==

* 父は陸軍軍人で、父の赴任先である鳥取金沢丸亀大分で育つ。
* 同志社女学校英文科専門部予科在学中、辻潤宮島資夫と知合う。彼らは野溝をゲアハルト・ハウプトマンの『沈鐘』(泉鏡花夜叉ヶ池』の元ネタと言われる)のラウテンデラインに因んで「ラウ」と呼んだ。
* 卒業後、東洋大学専門学部文化学科で西洋哲学を学ぶ。
* 1923年 - 『山梔』(くちなし)を「福岡日日新聞」懸賞小説に応募。
* 1924年 - 文化学科第1回生として卒業。1年間、研究生としてドイツ文学を学ぶ。島崎藤村田山花袋徳田秋声の選で『山梔』が「福岡日日新聞」懸賞小説特選となり、同紙に連載。独逸語専修科中退。
* 1925年 - 「信濃毎日新聞」に『暖炉』連載。菊池寛久米正雄が『眉輪』を映画原案懸賞第一席に推すも、古代皇室を題材としたものだったため発表されず。
* 1926年 - 『山梔』刊(のち講談社文芸文庫、解説は矢川澄子)。北原白秋宇野浩二に推賞される。白秋に見こまれて「近代風景」誌に参加。
* 1927年 - 仏空軍将校ピエール・ドフルノー、歌人・編集者の鎌田敬止(1893-1980)と知合う。ドフルノーとの交流から書かれた手記が死後『アルスのノート──昭和二年早春』として刊行されることになる。神近市子が『山梔』について新聞に記事を書く。
*鎌田敬止と同居。
* 1928年 - 長谷川時雨の「女人芸術」に参加。
* 1930年 - 『女獣心理』が「都新聞」懸賞小説に入賞。
* 1931年 - 『女獣心理』を同紙に連載。挿画は木村荘八
* 1933年 - 花田清輝と知合う。
* 1940年 - 『女獣心理──新和壘の手記』刊(のち『女獣心理──新和壘の手記によるレダと沙子との物語』として角川文庫、解説はドイツ文学者・手塚富雄。副題なしで講談社文芸文庫、解説は水原紫苑)。
* 1942年 - 紅露独逸語学校初等科卒業。
* 1946年 - 「芸苑」に発表した随筆「阿兄何必涙潜々」がGHQにより発禁となる。短篇集『南天屋敷』刊。
* 1948年 - 短篇集『月影』刊。
* 1951年 - 成瀬正勝の依頼で東洋大学文学部国文学科専任講師(のち教授、また同大アジア・アフリカ文化研究所研究員や同大短大講師を兼任)として近代文学を講じる。比較文学者として古事記森鷗外とヨーロッパ文学(ゲーテクライストハウフヘッベルビョルンソンフローベール聖書)との関係を研究。講演を行い、シンポジウムにも参加。
* 1955年 - 『憂愁の市』を「白山春秋」に連載(未完・未刊)。このころから新橋第一ホテルで生活。
* 1965年 - 『森鷗外訳「フアウスト」註解』刊。
* 1967年 - 東洋大を定年退職。アジア・アフリカ文化研究所研究員職は継続。
* 1969年 - 鹿児島・伊集院町南日本短期大学の国文科教授となる。この年から三年間、毎年訪欧。
* 1972年 - 南日本短大退職。
* 1978年 - 同人誌「文學城」創刊。「阿兄何必涙潜々」を再録、新作を発表。
* 1980年 - 短篇集『ヌマ叔母さん』刊。新川和江の詩集『水へのオード16』に野溝の名が現れる。
*同年5月19日〔稲岡勝監修『出版文化人物事典』日外アソシエーツ〕、鎌田敬止が自殺〔鎗田清太郎『角川源義の時代』〕。
* 1981年 - 『眉輪』決定稿完成。『森鷗外訳フアウスト』刊。
* 1982年 - 瀬戸内晴美が連載中の大杉栄伝『諧調は偽りなり』で野溝および辻潤について事実誤認。野溝と瀬戸内は新橋第一ホテルで面談、いちおうの和解となり、瀬戸内は連載の続きで誤認を認める。竹田市名誉市民。
* 1983年 - 西多摩郡瑞穂町・仁友病院に移る。『山梔』『女獣心理』(副題なし)『南天屋敷』『月影』『ヌマ叔母さん』を併せた『野溝七生子作品集』刊、解説は友人の姪で交友のあった矢川澄子、栞には種村季弘鶴見俊輔森銑三橋本真理が執筆。
* 1985年 - 姪・林礼子『希臘の独り子──私にとっての野溝七生子』刊。林は芥川賞作家小谷剛主宰の「作家」に参加していた。
* 1986年 - 久世光彦が連載エッセイ『君よ知るや南の国』で『山梔』を取上げる。
* 1987年 - 心不全で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「野溝七生子」の詳細全文を読む




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