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神戸の長吉 : ミニ英和和英辞書
神戸の長吉[こうべのちょうきち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かみ]
 【名詞】 1. god 
: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 

神戸の長吉 : ウィキペディア日本語版
神戸の長吉[こうべのちょうきち]

神戸の長吉笹川, p.260.〕〔今川, p.170-171, 178.〕〔, p.310.〕〔藤田, p.400, 477.〕(かんべのながきち、1814年 - 1880年3月20日)は、日本の侠客である〔〔〔''神戸の長吉''コトバンク、2015年8月7日閲覧。〕。村上元三小説次郎長三国志』に同名で登場、「荒神山の喧嘩」の中心となった人物である〔。神戸長吉(読み同)とも〔〔。「神戸の長吉」と呼ばれる前は吉五郎(きちごろう)と名のっていた〔〔山本, p.134.〕。本名は初芝 才次郎(はつしば さいじろう)〔〔〔。
== 人物・来歴 ==
1814年(文化11年)、下総国千葉郡浜野村(現在の千葉県千葉市中央区浜野町)に生まれる〔。小島政二郎の小説『次郎長日向』(1955年)には、吉良の仁吉(本名・太田仁吉、1839年 - 1866年〔吉良仁吉 、コトバンク、2015年8月7日閲覧。〕)に対して加勢のお礼を述べに来て、その帰りに角井門之助に斬殺される「よね」という母が登場するが、フィクションである〔志水, p.218-225.〕。長吉は史実では仁吉よりも25歳年長である〔〔。吉良の仁吉、館林の玉吉(御油の玉吉)とともに「三吉」と称された〔。
正確な時期は不明であるが地元を出奔、吉五郎の名で渡世人として生き〔、伊勢国河曲郡神戸城下(現在の三重県鈴鹿市神戸)に流れ着いたころには、すでに中年になっていたという〔〔。同地に一家を構え、長身であり長顔であったことから「神戸の長吉」と呼ばれた〔〔。山本鉄眉(天田愚庵、1854年 - 1904年)が清水次郎長に聞き書きし、次郎長の生前に上梓した『東海遊侠伝』(1884年)には、第十二回『笠砥高市両党争威 荒神激闘二魁殞命』(笠砥の高市に両党威を争い荒神の激闘に二魁命を殞す)という章があり、「吉五郎、其面頗る長し、人呼て長吉と云ふ」と記される通りである〔。神戸藩一万石の伝馬御用を勤める木田松の下請けで伝馬の仕事を引き受ける傍ら、神戸の十日市町入口の地蔵院(現在の天台真盛宗神戸十日市教会元地蔵院)に賭場を開いていた〔。日永の追分(現在の三重県四日市市追分)の神戸屋祐蔵(勇蔵とも〔〔)の配下に入る〔〔。荒神山(現在の三重県鈴鹿市高塚町観音寺)は、もともとは神戸屋の縄張りであり〔〔、祭礼の際に開かれる博奕場は繁盛し「千両かすりの賭場」と呼ばれた〔。長吉は、この賭場の権利を神戸屋から譲渡されていた〔。
伊勢国員弁郡穴太村(のちの神田村、現在の東員町大字穴太)の穴太徳次郎(本名・中野徳二郎、1823年 - 1874年)、通称「穴太徳」(安濃徳とも)とは、同じ神戸屋の配下であり、兄弟分の間柄であった〔〔。桑名宿(現在の桑名市)は穴太徳の本拠地であったが、同地で長吉の養子、久居才次郎が博奕の上で喧嘩をしたところ、その報復として家に放火されるという事件が起きた〔。1864年4月26日(元治元年3月21日)未明、伊勢参宮街道(現在の国道23号)の追分の一本松で、長吉らがさらにその報復として、穴太徳一派の人間を斬った〔〔。「御座れ参れの喧嘩」という〔。長吉は逃亡を余儀なくされ、神戸を離れていたが、その間に穴太徳一派が荒神山の賭場を自らの支配下に奪い取った〔。笹川臨風は長吉の不在について、逃亡ではなく「或る罪にて三年間獄屋に繋がれてゐる内に」と記している〔。長吉が、義兄弟分の仁吉に相談し、その逆襲として勃発したのが、1866年5月22日(慶応2年4月8日)の「荒神山の喧嘩」であった〔〔。仁吉は、三河国幡豆郡寺津村(現在の愛知県西尾市寺津町)の寺津一家三代目であり、寺津は二代目の寺津間之助の時代から次郎長の清水一家と同盟関係にあったため、大政関東綱五郎らと合流して先頭を切り、総勢22名で穴太徳、黒駒勝蔵(1832年 - 1871年)、雲風亀吉こと平井一家二代目平井亀吉(1828年 - 1893年)らと戦闘し、銃撃されて死に至る重傷を負っている〔〔〔。この戦闘において、長吉を「現場から逃匿れてゐた」(笹川)というような「卑怯者」「憶病者」として描いたのは、史実とまったく異なっており、三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作である〔〔〔〔。長吉に加勢した清水・寺津連合の22人のうち、『東海遊侠伝』が「外二名今名を失す」と書かれるのは、長吉の乾分であり、この戦闘で同2名は戦死した〔〔〔。
「荒神山の喧嘩」以降、郷里の浜野村に戻って隠遁していたが、明治維新以降に戻ってきて、神戸十日市町に居を構える〔。1871年(明治4年)、荒神山手打式が行われたが、そのときの清水一家の集合写真には写っていない〔File:荒神山の手打式の写真 ウィキメディア・コモンズ、2015年8月7日閲覧。〕。跡目養子であった久居の才次郎こと浅野才次郎は、1875年(明治8年)に伊勢国一志郡久居(現在の三重県津市久居)に定住し、長吉の跡目を継ぐことなく、弟分の糸屋の市五郎こと伊藤市五郎が相続し、長吉は隠居した〔〔。市五郎は、当時「桑名侯の落胤」つまり先代の桑名藩主松平猷(1834年 - 1859年)の隠し子である、という噂があった人物であるという〔。長吉の本名は初芝 才次郎とされるが〔〔、これは維新以降に改めて名のったものである〔。1876年(明治9年)11月の伊勢暴動では、神戸の町に暴徒が侵入、民家に放火をしようとしたが、これを防ぐために指揮を執り、暴徒の先頭集団の1名を斬殺、鎮圧側に回ったという〔〔。
1880年(明治13年)3月20日、病気により死去した〔〔。満66歳没(享年67〔)。『日本俠客100選』の「穴太の徳次郎」の項の末尾には、長吉の没年月日として「明治十三年三月二十六日」と記載されているが〔、これは誤りである〔〔。
藤田五郎によれば、長吉の墓は三重県鈴鹿市西条町の法華宗陣門流妙祝寺〔妙祝寺 法華宗陣門流、2015年8月7日閲覧。〕にあり、建てたのは千葉県千葉郡浜野村の初芝初五郎、戒名は「妙法本行院誉泰嶺日徳信士」であるという〔〔〔増田, p.84.〕。長吉の墓は、2基の身内の墓と並んでいるが、同寺の過去帳には「慶応二年寅歳四月八日 泰進信士、仝 最進信士 才次郎子分」とあり、いずれも「慶応2年4月8日」つまり「荒神山の喧嘩」で死んだ子分の墓である〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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