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畿内丸 : ミニ英和和英辞書
畿内丸[きないまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

畿内 : [きない]
 【名詞】 1. territories in the vicinity of the capital and under direct imperial rule 2. (in Japanese history) the five kuni in the immediate vicinity of Kyoto
: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 

畿内丸 : ウィキペディア日本語版
畿内丸[きないまる]

畿内丸(きないまる)は、かつて大阪商船(現:商船三井)の所有していた貨物船で、畿内丸型貨物船の8隻(準姉妹船2隻含む。後述)のネームシップでもある。姉妹船ともども「超特急貨物船」〔#大阪時事300706〕、「太平洋」〔#商船 「昭和三年以降大阪商船が極東紐育線に放った所謂「太平洋の隼」畿内丸以下八隻は・・・」〕などの異名を持ち、太平洋戦争では特設運送船として運用された。
== 概要 ==
日本からアメリカへの貨物輸送は、黎明期には太平洋を渡ってアメリカ西海岸の諸港に運び、そこから大陸横断鉄道によって東部諸都市へと運ばれていった。大阪商船は1909年(明治42年)にミルウォーキー鉄道と提携してタコマ航路を開設したが、これは大阪商船初の遠洋航路でもあった〔#山高p.198,201〕。この航路は6,000トンクラスの「たこま丸」級貨客船6隻と9,500トンクラスのまにら丸級貨客船6隻で維持されていた〔#山高p.201〕。パナマ運河開通以後は直接アメリカ東海岸諸港を結ぶ航路が開拓されるようになり、大阪商船のライバル日本郵船1916年(大正5年)6月21日に対馬丸(6,754トン)を第一船としてニューヨーク航路を開設した〔#郵船100p.143〕。しかし、大阪商船や日本郵船のものを含めた北アメリカ航路就航の日本の貨物船は、第一次世界大戦後に建造された、より性能を向上させた外国の貨物船の後塵を拝するようになる〔#野間 p.102〕。当時の日本の主要輸出品で高賃率でもあった生糸も、日本船ではなく外国船で運ばれる事態となってしまった〔。さらに、ディーゼル機関を搭載する船舶の出現以後は、既存船の陳腐化が一層目立って世代交代の兆しも見えるようになった〔#又新300615〕。
畿内丸も、そういった新しい世代の日本の貨物船の先陣を切って〔三菱重工業長崎造船所で建造され1930年(昭和5年)6月15日に竣工した。試運転にて18.438ノットの高速を発揮したが〔、速力性能の他に合計974.34立方メートルに及ぶ生糸専用のシルクルーム6室〔〔、特殊貨物室63.63立方メートル〔、冷蔵貨物室341.41立方メートル〔、強力なデリック装置〔#野間p.103〕など充実した設備を備えていた。6月29日の香港発にて初就航し、7月13日に神戸港を経由して〔7月16日に横浜港を出港し、7月27日にロサンゼルスに到着。これまでの所要日数約23日を半分縮める11日間と6時間30分で太平洋を横断し〔、新記録を樹立した。ニューヨークへは8月11日に到着し、横浜~ニューヨーク間を25日間と17時間30分で航行〔。ニューヨーク到着時、「日本は鉛筆の芯のようにとがった船を持ってきた」と賞された〔。畿内丸の就航により、行き詰まり感さえあった大阪商船のニューヨーク航路改善策は功を奏し〔#大毎310226〕、予期以上の成果を挙げて高速船の威力を見せつける事となった〔。また、他社の高速ディーゼル貨物船導入が進むきっかけとなったが〔、日本郵船のみこの分野では出遅れ、船舶改善助成施設によって建造されたN型貨物船の就航まで待たなければならなかった〔#郵船100p.203〕。1938年(昭和13年)7月からは終点をニューヨークからヨーロッパに変更した欧州航路にも就航〔。ようやく隊伍を整えた日本郵船の新鋭船と提携して覇を競うこととなった〔#大朝390210〕。しかし、第二次世界大戦勃発と日米関係の悪化により航路は縮小を余儀なくされ、1941年(昭和16年)3月15日の神戸発ニューヨーク行が最後の商業航海となった〔。
昭和16年9月3日に日本海軍に徴用されて特設運送船(甲)となり〔#特設原簿p.98〕、9月5日から10月11日にかけて笠戸船渠で艤装工事を行う〔。9月20日に入籍後〔、佐世保鎮守府籍となる〔。1942年(昭和17年)1月のマナド攻略戦に参加の後〔#二水戦1701p.43〕、6月20日まで第二艦隊近藤信竹中将)の指揮下に入って行動する〔#佐鎮1705pp.32〕〔#佐鎮1706p.50〕。その後はラバウル方面に進出し〔#佐鎮1707p.42〕、8月にはポートモレスビー作戦中のバサブアおよびラビへの部隊揚陸を行う〔。ラバウルと日本本土間を往復の後、1943年(昭和18年)2月23日に特設運送船「日祐丸」(日産汽船、6,817トン)とともに第28設営隊を乗せてラバウルに向かう〔〔#呉防戦1802p.32〕。輸送任務終了後、5月3日に第2023船団に加入してラバウルを出港し、5月6日にトラック諸島に到着した〔#佐鎮1805p.42〕〔#四根1805p.12,15,17〕。
5月8日早朝、畿内丸は横須賀に向かう第4508船団に加入してトラックを出港した。この第4508船団には、畿内丸の他に特設水上機母艦國川丸川崎汽船、6,863トン)、陸軍特殊船摩耶山丸(三井船舶、9,433トン)および特設給兵船辰武丸(辰馬汽船、7,068トン)が加入しており〔#國川丸戦闘詳報p.4,5〕、水雷艇」が護衛していた〔#國川丸戦闘詳報p.5〕。他の加入船も新鋭船や優秀船であったが、唯一のネックは辰武丸がラバウルで低質の石炭を搭載したがために、最高速力が9ノットしか出なくなっていたことだった〔#國川丸戦闘詳報p.5,6〕。速力が遅いと潜水艦に狙われやすくなるため、辰武丸を船団から除外するか、二手に分かれて國川丸および摩耶山丸を先行させるべきと意見具申したものの、いずれの案も却下された〔#國川丸戦闘詳報p.6,7〕。こういった不安を抱えたままトラック北水道を通過して横須賀に向かうも、第4508船団はトラック出港直後からアメリカのポーパス級潜水艦プランジャー (''USS Plunger, SS-179'') の追跡を受け続けることとなった〔#SS-179, USS PLUNGERp.120,121〕。翌9日未明2時11分頃、國川丸にプランジャーからの魚雷が2本命中するも、いずれも不発であった〔#國川丸戦闘詳報p.7〕〔#SS-179, USS PLUNGERp.136 記載時刻はグリニッジ常用時(Greenwich Civil Time)で約9時間差〕。午後に入って再びプランジャーからの魚雷を受け、國川丸の船底に魚雷が1本命中したものの、またもや不発だった〔〔#國川丸戦闘詳報p.8〕。第4508船団は偽航路など策を弄して北上を続けるが、次第に速力に優る國川丸および摩耶山丸と、低速の辰武丸およびそれに付き添う畿内丸は離れてゆく〔#國川丸戦闘詳報p.9〕。5月10日4時ごろ、の地点でプランジャーからの魚雷が命中し、航行不能となった〔〔#國川丸戦闘詳報p.9,16〕。救援のため辰武丸が接近するも、約3時間半後にプランジャーからの魚雷が戦隊後部に命中して轟沈した〔〔#國川丸戦闘詳報p.17〕。正午過ぎに再び雷撃され、船橋前部には亀裂が走って沈没の危機が増した〔#SS-179, USS PLUNGERp.137 記載時刻はグリニッジ常用時(Greenwich Civil Time)で約9時間差〕〔。ここに至って國川丸および摩耶山丸は先行して横須賀へ向かい、鵯が護衛のため残留することとなった〔。5月11日朝、プランジャーは浮上して3インチ砲と20ミリ機銃を撃ち込んで止めを刺し〔#SS-179, USS PLUNGERp.129,137〕、火災が発生した畿内丸は8時27分に沈没していった〔#國川丸戦闘詳報p.19〕。畿内丸の沈没を確認したプランジャーは第4508船団への複数回の攻撃で魚雷を使い切ったため、哨戒を終了してミッドウェー島に針路を向けた〔#SS-179, USS PLUNGERp.129〕。畿内丸は7月15日に除籍され、7月20日に解傭された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「畿内丸」の詳細全文を読む




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