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津軽藩 : ミニ英和和英辞書
津軽藩[はん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい]
  1. (n,pref) light 
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 

津軽藩 ( リダイレクト:弘前藩 ) : ウィキペディア日本語版
弘前藩[ひろさきはん]

弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあったである。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城青森県弘前市下白銀町)に置いた。
== 沿革 ==

鎌倉時代の津軽は、北条氏得宗領であり、得宗被官として送り込まれた津軽曾我氏や、津軽生え抜きの領主から地頭代官に抜擢された津軽安藤氏(安東氏)が支配した。
曾我氏は、南北朝時代元中年間(138092年)に、詳細は不明であるが根城南部氏によって滅んだとされ、
また、安東氏は南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努めたが、15世紀半ば頃、糠部郡から勢力を伸ばしてきた南部氏に追れた。
戦国時代初期、三戸南部氏の当主・南部信時津軽地区を領国内に納めようと進出をおこない、延徳3年(1491年)に一族の南部(大浦)光信津軽西浜種里城に配置し安東氏への押さえとするとともに、明応7年(1498年)〔『前代暦譜』〕に四男・南部(達子)光康外浜堤ヶ浦に配置し「津軽郡代」とした。
文亀2年(1502年)、種里城主・南部光信は新たに築いた大浦城盛信を置き、大浦盛信は「大浦屋形」と称され、喜田、大浦を含む鼻和郡は勢力基盤となっていく。
そして、天文15年(1548年)以降、三戸南部氏は当主・南部安信の弟南部(石川)高信石川城に、南部政行大光寺城に配置し、強力な支配体制を築き上げた。
津軽氏は、元は大浦氏を称し、大永6年(1526年)、初代光信が没し、嫡男・盛信が跡を継ぎ、以後、三代は盛信の娘婿・政信、四代は政信の子・為則、永禄10年(1567年)婿養子として入った為信が五代目としてが継承した〔『弘前市史』〕。
初代藩主となる津軽為信は、もとは南部氏の被官であり、戦国末期に独立化を進め、天正18年(1590年)3月、浪岡城を囲み城代楢山帯刀を三戸に敗走させた〔『南部根元記』〕際に、南部信直は為信討伐を九戸政実に命じるが病気と称して出馬せず、久慈政則・櫛引清長・七戸家国らも抑えたため、津軽への出兵を断念することとなり、為信の独立と津軽・外浜の領有は達成される。
為信は、同天正18年7月の豊臣秀吉小田原征伐に参陣して南部氏の領地を切り取る形で独立して、大名の地位を公認され、さらに、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が江戸時代を通じて津軽地方一帯を治めた。
弘前藩の領地と石高は、当初陸奥国津軽領4万5,000石と関ヶ原参陣の功によって加増された上野国勢多郡大舘領(現群馬県太田市尾島地区など)2,000石の計4万7,000石。元禄2年(1689年)に黒石津軽家の分家が絶え、分知していた1,000石を召し上げられて4万6,000石となる。この際領内に生じた飛び地の天領を解消するため、元禄11年(1698年)に幕府との間で領地を交換し、大舘領を返上して陸奥国伊達郡秋山村(現福島県伊達郡川俣町内)を取得した。その後、9代寧親の代の文化年間に高直しがあり文化5年(1808年)に10万石となった。これに伴い従四位下昇進と大広間詰めが認められ、準国持ち大名に列することになった。この家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたものであり、実際の加増を伴わないため藩の負担増ばかりを招いた。またこの家格向上により、対立関係にあった陸奥盛岡藩主・南部利用より寧親が上座となり、これに対する屈辱から盛岡藩士の下斗米秀之進が寧親の暗殺を計画した相馬大作事件が引き起こされた。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、当初奥羽越列藩同盟に属したが後に脱退、新政府に与して箱館戦争などで功績を挙げ、戦後に新政府より1万石を加増された。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により弘前県となる。同年9月、黒石県七戸県館県(現北海道)、斗南県八戸県を併合、後日県庁の青森移転に伴い青森県に改称された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「弘前藩」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hirosaki Domain 」があります。




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