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津軽寧親 : ミニ英和和英辞書
津軽寧親[つがるやすしおや]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい]
  1. (n,pref) light 
: [やすし, むしろ]
  1. (io) (adv) rather 2. better 3. instead

津軽寧親 : ウィキペディア日本語版
津軽寧親[つがるやすしおや]

津軽 寧親(つがる やすちか)は、江戸時代中期から後期の旗本大名交代寄合陸奥黒石領の第6代当主。のち陸奥弘前藩の第9代藩主。
== 生涯 ==
明和2年(1765年)1月17日、陸奥弘前藩分家の黒石領第5代当主・津軽著高の長男として生まれる。安永7年(1778年)5月6日、4,000石の黒石津軽氏の家督を継ぐ。この際に、時の本家弘前藩第7代藩主・津軽信寧より偏諱を受け、寧親と改名した。寛政3年(1791年)、信寧の子で本家の藩主であった津軽信明が若死にしたため、その養嗣子として跡を継いだ(黒石領は長男の典暁が継承)。
藩政においては信明の改革を受け継いで、他藩から開拓者を求めて人寄役を設置し、寛政8年(1796年)には藩校・稽古館を創設する。寛政9年(1797年)には法令『寛政律』を制定したが、信明には遠く及ばず、信明時代に行なわれていた武士による半農農村復興政策は失敗に終わった。寛政4年12月28日(1793年2月8日)、西津軽地震発生。領内に被害が出た。
文化2年(1805年)、蝦夷地の警備における功績〔最も知られる事例を挙げる。オホーツク沿岸の宗谷・斜里・樺太を担当地とされた藩は1807年、宗谷に300人の藩士を送り込んだ。このうち斜里に陣屋を構築した分隊100人は旧暦9月に現地に入ったが、9月28日には降雪を観測する気象条件の中越冬を体験することになった。乏しい食料から脚気などの病気に苦しみ、越年時には既に14名が死亡。厳冬期ではあるが動けるものを動員し、宗谷に駐屯する本隊を目指して転地兼援助要請を三度派遣したが、全て途上で全滅した。翌年6月に迎えの船が来た際には合計72名が死亡済、津軽に生還できたのは15名しかいなかった。のちにあまりに苛酷であるとして、宗谷の担当地は増毛に変更されたが、他にも1805年に択捉島に派遣された津軽藩士30名のうち、11名が死亡など、1793年から1822年の間に藩士8,694人(実際は相次ぐ動員に人員が不足し、武士身分だけでは足りず、職人や農民も含まれる)が蝦夷地警固に派遣され、295人が現地で死亡している。これらの藩の犠牲と努力が幕府に評価された上での、家格の向上である。〕により、幕府より高直しが行なわれて7万石、後に10万石の大名となった。四品に叙任された翌年の文化6年(1809年)には支藩である黒石藩を立藩している。しかし相次ぐ改革と蝦夷地警備などにおいて出費が莫大なものとなり、それを賄うために領民に重税を強いたため、文化10年(1813年)に民次郎一揆が起こった。
文政4年(1821年)には家格が盛岡藩より上昇したことを妬まれて、盛岡藩関係者による相馬大作事件と呼ばれるテロ事件が発生している。文政8年(1825年)4月10日に家督を次男の信順に譲って隠居し、向陽館・広州と号した。
以後は俳句を楽しみ、如山・栖鶴・琴亭という俳号を残している。天保4年(1833年)6月14日、江戸で死去した。享年69。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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