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檀一雄 : ミニ英和和英辞書
檀一雄[だん かずお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いち]
  1. (num) one 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

檀一雄 : ウィキペディア日本語版
檀一雄[だん かずお]

檀 一雄(だん かずお、1912年明治45年)2月3日 - 1976年昭和51年)1月2日)は、日本の小説家作詞家私小説歴史小説料理の本などで知られる。「最後の無頼派」作家・文士ともいわれた。また、西遊記の日本語抄訳もある(東京創元社ほか)。
代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』、時代娯楽作品も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に亘り、書き継がれライフワークとなった遺作『火宅の人』(1986年、東映で異父弟のプロデューサーの高岩淡の企画、深作欣二監督、緒形拳主演により映画化)など。
女優の檀ふみは長女。エッセイストの檀太郎は長男。太郎と同じくエッセイストの檀晴子は太郎の夫人。妹に左翼活動家でイラストレーターの檀寿美がいる。作家の嵐山光三郎とは嵐山が編集者時代から親交が厚かった。
== 来歴 ==
山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市下谷)に図案の技師として、県立工業試験場に勤めていた父・参郎、母・とみの長男として生まれる。檀家は本籍地福岡県山門郡沖端村(柳川市)で、柳川藩の普請方を務めた家柄であった。父の参郎は山梨県立工業学校の図画教員で、繊維工業試験場の嘱託も兼ねていた。1914年大正3年)、父が退職したため福岡へ戻る。翌1915年(大正4年)、参郎の画業修行のため上京して谷中に住むが、生活が困窮し翌年には再び帰郷し、母とみの実家である久留米に住む。栃木県足利の尋常高等小学校に通うが、1924年(大正13年)には両親が離婚する。この年には栃木県立足利中学校へ進学。
1928年昭和3年)には福岡高等学校文科乙類へ入学。この頃には同人誌を製作して小説や詩を発表しており、社会主義読書会へも参加して停学処分を受けた。1932年(昭和7年)、東京帝国大学経済学部に入学。1933年(昭和8年)、同人誌『新人』を創刊し、処女作「此家の性格」を発表、瀧井孝作林房雄らの賞賛を受け、尾崎一雄を紹介される。同年、太宰治井伏鱒二の知遇を得、師と仰いだ佐藤春夫とも知る。この年には11年ぶりに母とみと再会している。1934年(昭和9年)、古谷綱武と同人誌『鷭』を創刊するが二号で廃刊。太宰治、中原中也森敦らと『青い花』を創刊、翌年、日本浪曼派に合流する。
1936年(昭和11年)、「夕張胡亭塾景観」が第2回芥川賞候補となる。『文藝春秋』に出世作「花筐」を発表。太宰の死後坂口安吾とも交流をもつ。1941年(昭和16年)、母の勧めで福岡の開業医の娘高橋律子と結婚し、1943年(昭和18年)に長男太郎誕生。1944年(昭和19年)には陸軍報道班員として大陸へ渡る。この間律子は腸結核に罹患。終戦後に帰国した一雄は献身的な看病を行ったが、律子は1946年(昭和21年)に死去。
同年、児童文学者与田準一の紹介で福岡県瀬高町の酒造家の娘山田ヨソ子と再婚し、上京後は石神井に居を構える。1950年(昭和25年)、先妻律子を描いた連作「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」にて文壇に復帰。1951年(昭和26年)「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞。
檀は舞台女優入江杏子と愛人関係にあった。入江は石神井の自宅にしばしば出入りしていたが、1956年(昭和31年)、青森県蟹田町の太宰治文学碑除幕式に同行した際に男女の関係となり、そのまま山の上ホテル同棲をはじめた。入江杏子との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』である。1961年(昭和36年)、「火宅の人」の最初の一編である「微笑」が文芸誌『新潮』に発表され、その後連作として各誌に発表された。しかし以後執筆は遅々として進まず一旦中断した。
1968年1月より1974年3月(20号)まで季刊文芸誌「ポリタイア」を編集、発行した。この実質的なスポンサーは世耕政隆(参議院議員・近畿大学総長)、麻生良方(衆議院議員)であった。
1970年(昭和45年)11月より1972年(昭和47年)2月までポルトガルのサンタ・クルス(リスボン近郊のTorres Vedrasの中にある漁村)に滞在。1974年(昭和49年)、福岡市能古島に自宅を購入し転居、月壺洞(げっこどう)と名づけた。1975年(昭和50年)に檀は悪性肺ガンのため九州大学医学部付属病院に入院。『火宅の人』を再開し、病床で最終章「キリギリス」を、口述筆記にて完成させ遺作となった。1976年(昭和51年)1月2日に死去した。享年63。死後、『火宅の人』で昭和51年度読売文学賞を追贈された。
1977年(昭和52年)、終の住家となった能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われている。また、檀の墓は故郷・柳川の福厳寺に建てられている。
1991-92年(平成3-4年)に、『檀一雄全集』(全8巻別巻、沖積舎、実質は作品集)が刊行された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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