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井伏鱒二 : ミニ英和和英辞書
井伏鱒二[いぶせ ますじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [ふく]
  1. (n,vs) stoop 2. bend down 3. crouch 4. lie down 5. prostrate oneself 6. fall prostrate 7. hide 8. yield to 9. submit to
: [ます]
 【名詞】 1. trout 2. sea trout
: [に]
  1. (num) two 

井伏鱒二 : ウィキペディア日本語版
井伏鱒二[いぶせ ますじ]

井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年明治31年)2月15日 - 1993年平成5年)7月10日)は、日本小説家。本名は井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現・福山市)生まれ。筆名釣り好きだったことによる。
==来歴==
1898年(明治31年)、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ士居」の屋号をもつ代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。1905年(明治38年)に加茂小学校入学、1912年(明治45年)には旧制広島県立福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)に進学した。同校の庭には池があり、二匹の山椒魚が飼われていて、これがのちに処女作として発表され、世に知られることとなる「山椒魚」に結びついた。作文は得意だったが成績はあまり振るわず、中学校3年生ころから画家を志し、卒業すると3ヶ月間奈良京都を写生旅行。そのとき泊まった宿の主人が偶然橋本関雪の知り合いと聞き、スケッチを託して橋本関雪に入門を申し込んだが断られ、やむなく帰郷する。
こののち、同人誌に投稿などをしていた文学好きの兄からたびたび勧められていたこともあって、井伏は文学に転向することを決意、早稲田大学文学部仏文学科に入学する。そこで同じ学科の青木南八と親交を深める一方、文壇で名を成していた岩野泡鳴谷崎精二らのもとを積極的に訪ねるようになる。しかし1921年(大正10年)、三回生のとき、井伏は担当の教授と「衝突〔懇意にされていた男性の教授からあるとき性的に言い寄られたが、同性には興味のない井伏がこれを断ると、この教授は手のひらを返すように井伏には辛くあたるようになったという。〕」し、休学して帰郷してしまう。約半年後に帰京、復学の申請をするが、同教授が反対したため叶わず、やむなく中退となった。さらにこの年、無二の親友だった青木が自殺するに及んで、井伏は日本美術学校も中退してしまう。
1923年(大正12年)、同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表。翌年、聚芳社に入社するが、退社と再入社をくりかえしたのち、佐藤春夫に師事するようになる。1924年(大正13年)、親友を頼って山口県柳井市に滞在。後になって、当時お露という名前の柳井高等女学校の生徒への切ない恋を告白した書簡が見つかっている。〔『朝日新聞』2010年10月27日37面〕。
1927年(昭和2年)、「歪なる図案」を『不同調』誌に発表、初めて小説で原稿料を得たが、なかなか芽が出ず、文藝春秋の女性誌『婦人サロン』に、同人誌仲間の中村正常中村メイコの父)と組んで、「ペソコ」と「ユマ吉」というモガモボを主人公にしたナンセンス読み物を書き始める。同年10月、遠縁の娘、秋元節代(当時15歳)と結婚。
1929年(昭和4年)、「朽助のいる谷間」を『創作月刊』誌に〔早稲田と文学・井伏鱒二年表 〕〔近代文学試論 、広島大学近代文学研究会、1983年6月、p.141〕、「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』誌に、「屋根の上のサワン」を『文学』に発表。翌年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版。この年は小林秀雄らが出していた雑誌『作品』の同人となったり、太宰治とはじめて会ったりしている。1938年(昭和13年)、「ジョン萬次郎漂流記」で第6回直木賞受賞、『文学界』誌の同人となる。戦時中は陸軍に徴用され、開戦を知ったのは南シナ海上を航行する輸送船の中だった。その後日本軍が占領した昭南に駐在、現地で日本語新聞(昭南新聞)の編集に携わった。この経験がその後の作品に大きな影響を与えている。
井伏鱒二は昭和初年から山梨県を頻繁に訪問し、山梨では多くの地元文人と交流し、趣味の川釣りなどを行っている。山梨を舞台にした作品も多い。1939年(昭和14年)には太宰治甲府市水門町(甲府市朝日)に居住する地質学者石原初太郎の娘である美知子との結婚を仲介している。1944年(昭和19年)7月には甲府市甲運村(甲府市和戸町)の岩月家に疎開する。岩月家は双英書房の創業者である岩月英男の実家で、岩月は井伏門下で、太宰治の著作などを刊行している。井伏は翌年1945年7月6日-7日の甲府空襲では被災している〔なお、太宰治は昭和14年9月に東京三鷹に転居していたが、戦時中には甲府の石原家に疎開しており、甲府空襲で被災している。〕。井伏はその後、広島県福山の生家に再疎開しているが、戦後も山梨県訪問は頻繁に行っており、俳人の飯田龍太らと交流した。
1965年(昭和40年)、『新潮』誌に、「黒い雨」(連載当初は「姪の結婚」)を連載。この作品で1966年(昭和41年)、野間文芸賞を受賞。同年に文化勲章も受章した。1970年(昭和45年)、「私の履歴書(半生記)」を日本経済新聞に連載した。1990年(平成2年)、名誉都民。
1982年(昭和57年)、荻窪の古老:矢嶋又次の昔の荻窪の「記憶画」に触発されて執筆した「荻窪風土記」を新潮社より発刊。
1993年(平成5年)6月末に東京衛生病院に緊急入院、7月10日、95歳で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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