翻訳と辞書
Words near each other
・ 坂口博翁
・ 坂口反応
・ 坂口吉平
・ 坂口周
・ 坂口哲夫
・ 坂口商店
・ 坂口大作
・ 坂口大助
・ 坂口奈央
・ 坂口孝則
坂口安吾
・ 坂口宏
・ 坂口実央
・ 坂口尚
・ 坂口岳洋
・ 坂口平兵衛
・ 坂口平兵衛 (2代)
・ 坂口平兵衛 (3代)
・ 坂口平兵衛 (初代)
・ 坂口幸雄


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

坂口安吾 : ミニ英和和英辞書
坂口安吾[さかぐち あんご]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さか]
 【名詞】 1. slope 2. hill 
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [われ]
 【名詞】 1. me 2. oneself 3. self 4. ego

坂口安吾 : ウィキペディア日本語版
坂口安吾[さかぐち あんご]

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年明治39年)10月20日 - 1955年昭和30年)2月17日)は、日本小説家評論家随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。
戦前はファルスナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、無頼派新戯作派と呼ばれる作家の一人として地歩を築いた〔奥野健男「坂口安吾――人と作品」(文庫版『白痴二流の人』)(角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)〕〔『新潮日本文学アルバム35 坂口安吾』(新潮社、1986年)〕。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された〔〔都筑道夫「安吾流探偵術」(『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』)(東京創元社、1985年)〕。
坂口安吾の文学作品には、途中で放棄された未完の長編や失敗作も多く、小説家としての技量や芸術性・完璧性の観点からは器用な作家とはいえないが、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格とが吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている〔〔三枝康高「作品解説」(文庫版『白痴・二流の人』)(角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)〕〔三島由紀夫「内容見本」(『坂口安吾全集』推薦文)(冬樹社、1967年)〕。
晩年に生まれた一人息子の坂口綱男写真家である〔写真家・坂口綱男T.Sakaguchi Home 〕。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
1906年(明治39年)10月20日、新潟県新潟市西大畑通28番戸(現・中央区西大畑町579番地)に、憲政本党所属の衆議院議員の父・坂口仁一郎(当時45歳)、母・アサ(当時37歳)の五男、13人兄妹の12番目として難産で生まれる。本名「炳五」(へいご)の由来は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。血液型はA型。本籍である新潟県中蒲原郡阿賀浦村大字大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家の高祖は、碁所の坂口仙得家の末裔という代々の旧家で、「坂口家の小判を積み上げれば五頭山の嶺までとどき、阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ」と言われたほどの富豪であり、遠祖・治右衛門(のち甚兵衛)は九谷焼の陶工であった〔〔「年譜」(文庫版『白痴・二流の人』)(角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)〕。しかし祖父・得七の投機の失敗により明治以後に没落した。父・仁一郎は政治活動に金銭を注ぎ、炳五の生まれた頃、家は傾きかけていた。邸内の広さは520坪で、松林の巨木に囲まれた邸宅は母屋と離れを合わせ90坪もあるのような建物で、裏庭の松林を抜けると砂丘が広がり、日本海を見渡せた〔〔坂口安吾「石の思ひ」(光 1946年11月)〕。祖父・得七は、炳五誕生の10日後に死去(79歳で没)。
父・仁一郎は、「阪口五峰」「七松山人」の号で漢詩集の著書『北越詩話』(1918-1919年)、『舟江雑誌』のある漢詩人でもあり(森春濤の門下)、市島春城(春城)、会津八一と親交があった。新潟米穀株式会社取引所理事長、新潟新聞社(現・新潟日報)社長なども務め、衆議院議員の政治家としては、大隈重信のもとで憲政擁護に尽力し、若槻禮次郎加藤高明犬養毅尾崎行雄(咢堂)らと政友であった〔「年譜」(文庫版『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』)(岩波文庫、2008年)〕。安吾は父について、「三流の政事家であった」としている〔石川淳『諸国畸人伝』(筑摩書房、1957年、中公文庫、2014年)〕。10歳年上の長兄の献吉は、後に新潟日報社やラジオ新潟(現・新潟放送)の社長などを務めた。母・アサの実家は、新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉(現・五泉市本町)の大地主・吉田家であった。吉田一族は皆〈ユダヤ的な鷲鼻〉を持ち、特に母・アサの兄(伯父)の眼は青く、〈まつたくユダヤの顔で、日本民族の何物にも似てゐなかつた〉という〔。アサは仁一郎の後妻で、傾いた家計を支えるのに苦労していた。炳五は、5歳の時に生れた・千鶴に母親を奪われたという思いが強く、気丈でヒステリックな母から愛されなかったという孤独を抱き、見知らぬ街を彷徨うこともあった〔坂口安吾「をみな」(作品 1935年12月号に掲載)〕〔。炳五は、自分ばかり憎み叱責する母に対する反抗心を増し、砂丘に寝転んでと小の風景を眺めながら、の中にふるさとを感じ、その中にふるさとの母を求めていた〔。
幼少時の炳五は破天荒な性格で知られ、ガキ大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘、茱萸林、異人池で遊び回り、立川文庫の『猿飛佐助』を愛読し忍術ごっこに興じて忍法を研究していた。炳五の従姉妹の徳(アサの妹の娘。のちの献吉の妻)によると、ある叔父が「炳五はとてつもなく偉くなるか、とんでもない人間になるか、どちらかだ」と言っていたという〔。小学校での成績は優秀で、ほとんどの科目が10点満点だったが、中学に入学すると近眼黒板の字が読めなくなり、英語数学の成績も下がった。家計は遣り繰りがうまくいかずに差押えを受けていたため、母から眼鏡を買ってもらえず、炳五はその真相が級友に分かるのが恥ずかしく、ほとんど授業に出なくなる。また横暴な上級生への反抗の気持ちも強く学校を休み、放課後の柔道などの練習だけ通った。ようやく眼鏡も買ってもらうが、炳五の不注意で黒眼鏡を買ってしまい、友人たちが珍しがって引ったくり、いじっているうちに壊れてしまう。授業が面白くなく、野球漫画を描き、海岸の砂丘の松林で寝転がるなどして過ごし、雨の日は学校近くのパン屋の二階で歌留多小倉百人一首)に興じる。この頃、谷崎潤一郎の『ある少年の怖れ』などを読む〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「坂口安吾」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.