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坂口仁一郎 : ミニ英和和英辞書
坂口仁一郎[さかぐち にいちろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さか]
 【名詞】 1. slope 2. hill 
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [にん, じん]
 (n) kernel
: [いち]
  1. (num) one 

坂口仁一郎 : ウィキペディア日本語版
坂口仁一郎[さかぐち にいちろう]

坂口 仁一郎(さかぐち にいちろう、安政6年1月2日1859年2月4日) - 大正12年(1923年11月2日 〔『新潮日本文学アルバム35 坂口安吾』(新潮社、1986年)〕〔「年譜」(文庫版『堕落論』)(新潮文庫、2000年)〕〔『官報』第3362号、大正12年11月6日。〕)は、日本の衆議院議員憲政本党立憲国民党立憲同志会憲政会)、新潟新聞社長。漢詩人としては阪口五峰のペンネームを用いた。長男はラジオ新潟社長・坂口献吉、五男は作家・坂口安吾
==生涯==
越後国中蒲原郡阿賀浦村(現在の新潟県新潟市)大安寺で、父・得七(文政10年3月11日 - 明治39年10月30日)と母・ユウ(1834年 - 明治30年)の長男として生まれる。祖先は肥前唐津にあり、江戸時代初めに加賀大聖寺越後長岡などを経て大安寺に住み着いた。当時得七は坂口家の本家とともに裕福な地主だった。仁一郎は13歳で聖籠村諏訪山の大野耻堂の門人となり、漢学、詩作を学んだ。15歳で大安寺に新居を構え、玉井波磨子を妻に迎える。1874年(明治7年)に父の投機失敗などがあり、仁一郎は東京に出て、耻堂の子の大野楳花の家に身を寄せて、中村敬宇同人社に通い洋学を学ぼうとしたが、2年ほどで父に連れ戻された。その後新潟へ出て、地租改正にあたって地券を定めるために、新潟米商会所(後に新潟米穀取引所)の創設者本間新作を手伝った。
1879年(明治12年)に本間により米商会所で頭取代理となる。1884年(明治17年)より改進党系の新潟県会議員として、17年間在職し、議長も経験した。1887年(明治20年)からは新潟新聞市島謙吉、小崎藍川を助けるようになり、1891年(明治24年)に市島が去ったため小崎が主筆、仁一郎が社長となる。またこの頃から「越人詩話」(後に七松居詩話、北越詩話)を新聞に掲載を始める。1889年(明治22年)には三子をもうけた妻・波磨子が亡くなり、1891年(明治24年)に後妻に吉田朝子を迎えた。
1902年(明治35年)、衆議院議員に当選。8期務め、1905年(明治38年)には満鮮戦地視察に赴いている。憲政会党務委員長、県支部長なども務めた。東京では日本橋元銀町樋口屋、後に戸塚に居住。1920年(大正9年)に発病、胃癌と診断されたが腹腔内腫瘍だった。この頃から蘇庵、更生同人と号する。1922年(大正11年)に新潟で中学を再落第・放校のおそれのあった安吾を戸塚に呼び寄せ、豊山中学校に編入させた。1923年(大正12年)11月に在職中のまま病の悪化により、細胞肉腫、後腹膜腫瘍で死去。大安寺の坂口家墓所に葬られた。
資料に坂口献吉『五峰余影』(1929年、増補1954年)がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「坂口仁一郎」の詳細全文を読む




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