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松平 定綱(まつだいら さだつな)は、江戸時代前期の大名。下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。定綱系久松松平家初代。松平定勝の三男。徳川家康の甥に当たる。なお正室は浅野長政の娘で、寛永10年(1633年)に卒去しており、智相院殿光誉馨安樹清大姉を贈られ、霊巌寺に葬られる。 == 生涯 == 慶長元年(1596年)、荒川次郎九郎の養子となるが、同4年(1599年)家康の命により荒川氏から松平氏に復する。同7年(1602年)、初めて家康に拝謁、2代将軍・秀忠に仕えるよう命ぜられる。同9年(1604年)、下総国山川領の内5千石を賜う。同12年(1607年)、従五位下越中守に叙任。同14年(1609年)、山川1万5千石を賜い、大名となる。大坂の陣では書院番頭として出陣、その功により元和2年(1616年)、常陸下妻2万石に移る。同4年(1618年)、掛川城3万石に転じ、さらに同9年(1623年)には淀城を修繕し城を守るよう命ぜられ3万5千石を賜う。寛永10年(1633年)、大垣城6万石へ転じる。翌年、従四位下に昇進。さらに同12年(1635年)、5万石の加増を受けて、桑名城に入る。慶安4年(1651年)、江戸で卒去。享年60。江戸深川霊巌寺で火葬され、遺骨は桑名照源寺へ贈られ埋葬された。寛政9年(1797年)、鎮国大明神の神号を追祠される。 また、松平定綱は、木下勝俊や小堀政一、林羅山ら文化人と交流があり、『政餘雕玉』にその詩歌が彼らの作品とともに掲載されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平定綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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