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村松友視 : ミニ英和和英辞書
村松友視[むらまつ ともみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 

村松友視 : ウィキペディア日本語版
村松友視[むらまつ ともみ]

村松 友視(むらまつ ともみ、1940年4月10日 - )は、日本の、元編集者作家、エッセイスト(本来の表記は村松友視。「視」の字は「示」の右に「見」)。
==来歴・人物==
東京府で生まれ、4歳から静岡県富士宮市周智郡森町で、終戦後は清水市(現・静岡市清水区)で育つ〔『私の父、私の母』中央公論社、1994年、197-201頁〕。祖父は作家の村松梢風。父村松友吾は中央公論社の編集者。母も中央公論社に勤務。父方のおじに教育評論家の村松喬、脚本家の村松道平、中国文学者の村松暎慶應義塾大学文学部教授)がいる。
父の死後、祖父梢風の子として入籍される〔その事情を知らない水上勉などは、「彼は梢風の妾の子だ。かわいそうに」と同情していたという。嵐山光三郎『昭和出版残侠伝』より。〕。だが、梢風は鎌倉で愛人と暮らしており、村松は清水で祖母一人に育てられる。少年時代から熱狂的なプロレスファンとして育つ。静岡県立静岡高等学校を経て慶應義塾大学文学部哲学科を卒業。
大学時代はテレビ局でアルバイトをしていたため、そのままテレビ局に入社する予定でいたが、入社試験に失敗。その後、何社ものマスコミを受験するが合格せず、祖父、父の縁がある中央公論社の社長嶋中鵬二に依頼して、既に締め切っていた中央公論社の試験を受けて、入社。
編集者として、伊丹十三のサロンに出入りしていた。また、叔父村松暎の教え子である、『婦人公論』編集者時代の草森紳一と知り合い、彼の薦めで雑誌「デザイン」等にコラムを執筆した。
小説中央公論』、『婦人公論』の編集者となる。『婦人公論』時代には、ベトナム戦争下のサイゴンを取材した。
1969年に文芸誌『』創刊で編集部。途中入社して『海』に参加した安原顯と同僚として交際した〔村松は「武闘派」の人物であったようで、安原が「大学中退」の学歴を黙っていたことで総務部から苦情を言われると、村松は総務部に怒鳴りこんだ(村松著『ヤスケンの海』より)。嵐山光三郎『昭和出版残侠伝』では村松について、「こんなに喧嘩っぽい編集者は見たことがない。」と描写されている。〕。『海』時代は、海外文学は安原にまかせ、村松は、唐十郎の戯曲を掲載するなど日本の「既成文壇外」の作家を発掘し、名編集者ぶりを発揮した。武田泰淳冨士』、後藤明生『夢かたり』、田中小実昌ポロポロ』、色川武大『生家へ』、武田百合子富士日記』などを担当している。また、野坂昭如の担当編集者でもあった。
『海』時代は吉行淳之介の担当編集者でもあったために行動を共にする事が多く〔ただし、「吉行番」の先輩編集者が多く、なかなか担当編集者になることができなかった〕、吉行伝説の語り部の一人でもある。まだ吉行と親しくなる前に、永井龍男から「あなたは、吉行淳之介に似ているねえ」と言われたという〔奇遇にも、吉行は、若い頃に「永井龍男に似ている」と言われたことがあるという。〕。
のち、塙嘉彦が4代目編集長となると、『海』編集部一同で、未亡人となった武田百合子邸を月1度訪問するのが恒例となった。また、色川武大と二人で「武田百合子に小説を書かせる会」を結成した。
唐十郎と親しくなり、小説を執筆するよう依頼。「状況劇場」の韓国公演にも「担当作家と同行する仕事」という名目で同行した。
唐と親しくなったことから、「状況劇場」のポスターを描いていた篠原勝之と知り合う。篠原の紹介で、赤瀬川原平南伸坊糸井重里を知り、毎月末には彼等と村松家で「ムラマツ宴会」なる集まりを行うようになった。この宴会には、小林薫安西水丸が顔を出すこともあった。また、唐の示唆で、赤瀬川に小説を書くよう薦め、彼が尾辻克彦名義で純文学を執筆するきっかけを作る。
市川猿之助とも交際があり、ファンクラブ向けの新聞「おもだかニュース」の編集を手伝っていた。
一方で作家への志があり、文芸雑誌の新人賞に何度も応募するが落選を繰り返す。だが、後藤明生に才能を認められ、「吉野英生」〔自分の尊敬する4人の作家、吉行淳之介、野坂昭如、唐十郎の本名・大靏義英、後藤明生から1文字ずつもらったペンネームだった。〕名義で、後藤が責任編集の一人である雑誌『文体』(平凡社)に「変装のあと」〔この小説の元原稿には、「プロレスの試合の場面」が40枚も書かれていたが、後藤の示唆で削除した。〕を発表。この作品が、福武書店の編集者の寺田博の目にとまり、雑誌『作品』に「オペラグラス」「悲劇のように」を発表。
1980年には、糸井重里に執筆を薦められ、本名で情報センター出版局から発表した、『私、プロレスの味方です』『当然プロレスの味方です』がベストセラーとなる〔前田日明は1988年に刊行した自著の中で『私味方です』を名著としている。〕。
本の雑誌』を創刊したばかりの椎名誠から執筆依頼がくるが、逆に椎名に小説執筆を依頼。椎名の初めての小説「ラジャダムナン・キック」を『海』に掲載する。
また、村松は見城徹の勧めで『野性時代』に発表した「セミ・ファイナル」と「泪橋」が、相次いで直木賞候補となる。このことを機に退職し、作家として独立。1982年、『時代屋の女房』で第87回直木賞を受賞。この作品は映画化もされて話題となった。
以降は風俗小説や、時代小説などを多数発表。自身とかかわりのあった人物についての評伝的作品も多い。また、『夢の始末書』や『鎌倉のおばさん』(泉鏡花文学賞受賞)、『上海ララバイ』のような自伝的な作品もある。
猫好きで、愛猫アブサンについての本も何冊も刊行している。
「ベーシーの客」などの著書もあるほかタモリなどと一緒にジャズを愛好しており、綾戸智恵を全国規模の有名人にした。
1986年にテレビ放映されたサントリーオールドCMにも出演し、「ワンフィンガーでやるも良し。ツーフィンガーでやるも良し。」というウイスキーの目分量を指の本数にたとえて表現した、”ワンフィンガー・ツーフィンガー”は1987年新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞した。以降、多数のテレビ番組にも出演している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「村松友視」の詳細全文を読む




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