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吉行淳之介 : ミニ英和和英辞書
吉行淳之介[よしゆき じゅんのすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [かい]
  1. (n,vs) shell 2. shellfish 3. being in between 4. mediation 5. concerning oneself with

吉行淳之介 : ウィキペディア日本語版
吉行淳之介[よしゆき じゅんのすけ]

吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年大正13年)4月13日 - 1994年平成6年)7月26日)は、日本小説家。代表作に『驟雨』『砂の上の植物群』など。対談やエッセイの名手としても知られた。
== 来歴==
岡山県岡山市に父・吉行エイスケモダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれた。同じ町内にはがいた。2歳のとき両親が上京、東京麹町に育った。府立一中の受験に失敗し、麻布中学を経て旧制静岡高校(現静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進んだ〔淳之介は高校2年生の時に「心臓脚気」という仮病で1年休学した。淳之介と親しくしていた親友2名は、彼等の学年では許されていた「徴兵逃れのための理系大学への進学」で長崎医大に進み、長崎の原爆で死亡した。結果的に淳之介は「仮病による休学」で命びろいした。吉行『私の文学放浪』〕。1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となった(召集前に終戦)。1945年4月、東京帝国大学に入学。5月の空襲で焼け出され、8月に終戦を迎えた。
淳之介は大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年新太陽社に入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。会社が倒産寸前のなかで多忙を極めて働きながら、いくつかの同人雑誌(『世代』『新思潮』など)に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎近藤啓太郎阿川弘之三浦朱門島尾敏雄らと知り合った。
1952年『原色の街』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、肺に結核による空洞が見つかり会社を休職、翌年に退社した。清瀬病院で肺切除の手術を受けて療養中、1954年『驟雨』で第31回芥川賞を受賞。収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、淳之介と同世代の作家の安岡章太郎三浦朱門近藤啓太郎らは「第三の新人」と呼ばれた。
1979年、日本芸術院賞を受賞し〔『朝日新聞』1979年3月6日(東京本社発行)朝刊、22頁。〕、1981年、日本芸術院会員となる。晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。
1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で逝去した。満。墓所は岡山市北区御津金川(旧:御津郡金川町草生)の吉行家墓地にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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