翻訳と辞書
Words near each other
・ 徳大寺公胤
・ 徳大寺公能
・ 徳大寺公行
・ 徳大寺公親
・ 徳大寺公迪
・ 徳大寺君枝
・ 徳大寺多子
・ 徳大寺実久
・ 徳大寺実則
・ 徳大寺実厚
徳大寺実基
・ 徳大寺実堅
・ 徳大寺実孝
・ 徳大寺実定
・ 徳大寺実家
・ 徳大寺実憲
・ 徳大寺実時
・ 徳大寺実淳
・ 徳大寺実盛
・ 徳大寺実祖


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

徳大寺実基 : ミニ英和和英辞書
徳大寺実基[とくだいじ さねもと]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [み, じつ]
 【名詞】 1. fruit 2. nut 3. seed 4. content 5. good result 
: [き, もとい]
 【名詞】 1. basis 

徳大寺実基 : ウィキペディア日本語版
徳大寺実基[とくだいじ さねもと]

徳大寺 実基(とくだいじ さねもと)は、 鎌倉時代中期の公卿従一位太政大臣徳大寺相国、又は水本太政大臣と号す。左大臣徳大寺公継の次男。母は白拍子の五条夜叉。
== 経歴 ==
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
建保元年(1213年)1月13日、叙爵。12月14日には侍従に任ぜられる。建保2年(1214年)1月3日、従五位上に昇叙。10月28日には右少将に任ぜられる。建保3年(1215年)1月13日、讃岐権介を兼ねる。5月6日には禁色を許される。建保4年(1216年)1月5日、正五位下に昇叙〔修明門院御給による。〕。建保5年(1217年)1月5日、従四位下に昇叙〔修明門院御給による。〕。同月28日には右中将に、さらに左中将に任ぜられる。建保6年(1218年)1月5日、従四位上に昇叙〔修明門院御給による。〕。承久元年(1219年)1月5日、正四位下に昇叙。12月13日、従三位に叙され左中将は元の如し。承久3年(1221年)1月13日、遠江権守を兼ねる。11月16日には正三位に昇叙。元仁元年(1224年)12月25日、参議を経ず権中納言に任ぜられる。嘉禄元年(1225年)11月19日、左衛門督を兼ね検非違使別当に補される。12月22日には従二位に昇叙。嘉禄2年(1226年)7月29日、中宮藤原長子中宮権大夫となる。安貞元年(1227年)1月30日、父公継が薨去したため喪に服し、左衛門督と検非違使別当を辞した。安貞2年(1228年)1月5日、正二位に昇叙。3月18日には帯剣を許される。寛喜元年(1229年)4月15日、中宮が女院(鷹司院)となり権大夫を止める。寛喜3年(1231年)4月26日、中納言に転正するが、籠居した〔藤原高実に超越されたためという。〕。以後、籠居が続き、嘉禎元年(1235年)10月2日、宣命があり権大納言に昇任。11月20日には大嘗会検校を勤める。延応元年(1239年)5月に辞表を提出し10月28日には辞表が下げられるが結局は権大納言を辞した。仁治元年(1240年)3月9日、本座を許される。仁治2年(1241年)4月17日、大納言に還任し、10月13日には右近衛大将を兼ねる。寛元2年(1244年)6月20日、母の喪に服すが7月10日には復任した。寛元4年(1246年)12月24日、内大臣に任ぜられ、右大将は元の如し。宝治2年(1248年)3月9日、右大将を辞した。建長元年(1249年)4月30日、上表して内大臣を辞そうとするが11月1日には辞表が返される。建長2年(1250年)4月27日、上表して内大臣を辞した。建長5年(1253年)11月24日、太政大臣に任ぜられる。建長6年(1254年)1月5日、従一位に昇叙されるが、2月11日に上表して太政大臣を辞した。文永2年(1265年)9月15日、出家し法名を圓覚とする。文永10年(1273年)2月14日、薨去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「徳大寺実基」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.