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常陸伊佐氏 : ミニ英和和英辞書
常陸伊佐氏[いさし いさうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とわ, じょう]
  1. (adj-na,n) eternity 2. perpetuity 3. immortality
: [りく, ろく]
 (adj-na,n) six (used in legal documents)
: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

常陸伊佐氏 : ウィキペディア日本語版
常陸伊佐氏[いさし いさうじ]
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伊佐氏(いさし・いさうじ)は、平安時代から南北朝時代まで常陸国伊佐郡茨城県筑西市)に住した伊達氏の祖とされる一族〔同族に下野国芳賀郡中村城中村氏がある。〕。
従来は藤原氏藤原北家山蔭流とされてきたが、毛野氏とする説も提唱されている。また、桓武平氏繁盛流常陸大掾氏族多気氏の一族とする説もあるが、これは刀伊の入寇で活躍し肥前国を賜った伊佐為賢を始祖とする肥前伊佐氏鎮西平氏)であり、別系統である。
== 歴史 ==
天永2年(1111年)、藤原定任の長男実宗が常陸介に任じられ、常陸国伊佐郡に住し伊佐氏を称したことから始まる。
文治5年(1189年常陸入道念西伊達朝宗または伊達宗村〕の4人の息子常陸冠者為宗(伊佐為宗)、同次郎為重同三郎資綱同四郎為家源頼朝による奥州合戦に従軍している。4兄弟は石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)で奥州藤原泰衡の兵と戦い、長子為宗の活躍により、信夫佐藤庄司(佐藤基治)及び宗徒の兵18人の首を得る戦功をあげた。この戦功により念西は伊達郡信夫郡を賜わり、同地に住して伊達氏を称したが、為宗は本領の常陸国伊佐郡にとどまり、伊佐氏を称した。
後鳥羽上皇鎌倉幕府が争った承久3年(1221年)の承久の乱では、伊佐大進太郎伊佐為宗の子とみられているが、伊達氏側の史料では為宗本人とされている)が北条泰時に従い上皇側と戦うが、宇治川の戦いで戦死(溺死と伝わる)。
伊佐大進太郎の跡は念西四男伊達為家が相続したと伊達氏の系図にみられるが、他の系図(『諸系譜』巻30)では為宗の子に玄蕃助為綱をあげ、叔母大進局〔大進局は源頼朝の寵愛を受け、頼朝との間に男子貞暁をもうけている。〕より備中の領地を相続したともある。為綱以降は宗行行方時方と続く。
また、『吾妻鏡』には文治3年(1189年)から承久5年(1221年)条に伊佐三郎行政の名前も見え、北条氏の系図(『系図纂要』)では北条有時の母に伊佐二郎朝政女の名前が見られる〔宝賀寿男は、行政・朝政は念西の弟と言う説を出している〕。
南北朝の対立が始まると伊佐太郎は南朝方に属し、同族の伊達行朝等と共に北畠顕家に従って、北朝方の高師冬等と戦った。伊佐城天慶3年(940年)、下野押領使藤原秀郷(俵藤太)が平将門追討の際に上館(元館)・中館・下館の三館築いたという伝説があり、伊佐城はこの三館のうちの中館を伊佐氏が改修したものといわれる。三館のうち下館は、室町時代から明治維新まで、下館城として水谷正村(蟠竜斎)など歴代下館城主が住した。〕に籠り、小田城関城大宝城と連携しつつ善戦したが、興国4年(1343年11月に落城。伊佐氏は没落し、伊達氏もまた常陸国における勢力を失った。
戦国時代には下総結城氏の家臣の中に伊佐姓の家臣が見受けられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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