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山名政豊 : ミニ英和和英辞書
山名政豊[やまな まさとよ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [な]
 【名詞】 1. name 2. reputation 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 

山名政豊 : ウィキペディア日本語版
山名政豊[やまな まさとよ]

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将守護大名山城安芸但馬備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。
== 生涯 ==
父は山名教豊、または祖父とされる山名宗全の子で教豊の養子ともされる(教豊は享徳3年(1454年)に宗全から家督を譲られて山名家当主となっていたが、応仁元年(1467年)9月に陣没し、宗全が当主として復帰している)。宗全との続柄は史料によって分かれていて、『続群書類従』・『寛政重修諸家譜』に記録されている系図では宗全の子で教豊の後を継いだと記されているが、『尊卑分脈』・『但馬村岡山名家譜』・『応仁記』では教豊の子としている。また、享徳3年に宗全が隠居、教豊が幕府に出仕した時に従った息子次郎が政豊に比定され、長禄2年(1458年)の幕府の記録にも次郎政豊の名が載っている〔川岡、P178 - P180。〕。
応仁の乱が始まった応仁元年の御霊合戦畠山義就に加勢、文明4年(1472年)8月に隠居した宗全から家督を継承、翌5年(1473年)に応仁の乱の最中に宗全が死去したため、文明6年(1474年)に東軍方の細川政元と和睦する。この際和睦に応じなかった畠山義就や大内政弘を攻撃している。また、文明2年(1470年)に摂津に在陣中に政弘の家臣仁保弘有と共に東軍の工作で寝返ったともいわれるが、この時内通したのは官位が同じ弾正少弼だった大内武治という人物で政豊とは別人である。
文明7年(1475年)に叔父(兄とも)の山名是豊と戦い西軍方として活動していた山内豊成が恩賞配分の不満から備後で反乱を起こしたため調停に努め、文明11年(1479年)から文明13年(1481年)にかけて赤松政則の支援で頻発した分家の領国の反乱鎮圧のため山陰地方に下向、因幡守護山名豊時伯耆守護山名政之を助けて因幡国人毛利貞元山名政実山名元之を排斥、領国を安定させた〔兵庫県、P85、P104 - P109、広島県、P458 - P462、川岡、P140 - P147。〕。
嘉吉の乱で山名氏の守護領国となっていた播磨備前美作では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあった。政豊は旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵する。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至った。
9代将軍足利義尚六角高頼征伐(長享・延徳の乱)にも従軍して戦功を挙げたが、義尚が最中に陣没すると、足利義視らと共謀して足利義材(義稙)を10代将軍に擁立した。また、明応の政変にも参加、細川政元と共に義材を廃して足利義澄を11代将軍に擁立している。しかし、播磨遠征の失敗で嫡男の俊豊及び備後国人衆と対立、明応2年(1493年)に抗争が激化、俊豊を廃嫡して致豊を後継者に定め、内乱を鎮めた。
明応8年(1499年)に死去。享年59。ただし、没年には文亀2年(1502年)1月説もある。以降山名氏は力を付けた守護代垣屋氏に押されるようになる〔兵庫県、P123 - P139、広島県、P462 - P464、川岡、P147 - P154。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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