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尖閣列島戦時遭難事件 : ミニ英和和英辞書
尖閣列島戦時遭難事件[くだん, けん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [れつ]
 【名詞】 1. queue 2. line 3. row 
列島 : [れっとう]
 【名詞】 1. chain of islands 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦時 : [せんじ]
  1. (n-adv,n-t) war time 
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 
遭難 : [そうなん]
  1. (n,vs) disaster 2. shipwreck 3. accident 
: [なん]
  1. (n,n-suf) difficulty 2. hardships 3. defect 
難事 : [なんじ]
 (n) difficulty
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

尖閣列島戦時遭難事件 ( リダイレクト:尖閣諸島戦時遭難事件 ) : ウィキペディア日本語版
尖閣諸島戦時遭難事件[せんかくしょとうせんじそうなんじけん]

尖閣諸島戦時遭難事件(せんかくしょとうせんじそうなんじけん)あるいは尖閣列島戦時遭難事件(せんかくれっとうせんじそうなんじけん)とは、太平洋戦争末期の1945年7月に日本の小型船2隻がアメリカ軍機の攻撃を受け、無人島だった尖閣諸島に漂着した事件である。約50日後に救出されたが、戦闘と飢餓などにより50人以上が死亡した。石垣島から台湾へ民間人を疎開させる途中に遭難したもので、「対馬丸」以外に沖縄県からの疎開船が撃沈破された数少ない事例である。台湾疎開石垣町民遭難事件、あるいは遭難船名に由来して一心丸・友福丸事件とも呼ばれる〔琉球新報 1983年12月14日。〕。
== 事件の経過 ==

1945年(昭和20年)6月24日、石垣島の住民に対し、24回目となる台湾疎開希望者の募集がされた〔沖縄県教育委員会(1974年)、116頁。〕。台湾へ物資を受け取りに行く独立混成第45旅団「水軍隊」所属船の往路を使った輸送であった。6月30日の夕刻に石垣港で乗船が始まり、「友福丸」(軍呼称:「第一千早丸」)と「一心丸」(軍呼称:「第五千早丸」)の焼玉エンジン搭載小型船2隻に約180人が乗り込んだ〔沖縄県教育委員会(1974年)、214頁。〕。乗船者のほとんどは女性と子供で、男性は高齢者が少数〔沖縄県教育委員会(1974年)、130-131頁。〕、朝鮮人台湾人も少数いた。乗船者数を各120人程度の約240人とする回想もある〔沖縄県教育委員会(1974年)、121頁。〕。
船団は、空襲を避けるためになるべく夜間航行を選び、6月30日夜7時頃に石垣港から台湾の基隆港を目指し出航、7月1日午前2時頃に経由地である同じ八重山諸島西表島船浮へ入った。昼間は碇泊して7月1日夜に航行再開する予定であったが、「友福丸」のエンジン故障のため出港を延期し〔沖縄県教育委員会(1974年)、127頁。〕、7月2日の午後7時に船浮を出た。船団は台湾直進ではなく、尖閣諸島付近まで迂回した欺騙針路で進んだ〔琉球新報 1983年12月15日。〕。
船団が数時間で基隆入港予定という7月3日午後2時頃、定期哨戒中のアメリカ軍機(日本側ではB-24爆撃機と判断〔)1機によって発見されてしまった。アメリカ軍機は船団側方から3回の爆弾投下と機銃掃射を行い、さらに船尾方向から航過しながらも機銃掃射を1回加えた〔『米海軍資料に見る海の沖縄戦展』〕。日本側は機関銃で応戦したが、効果は無かった〔。船上では「一心丸」の宮城三郎船長以下死傷者が続出し、銃弾で割れた瓶から味噌が流れて血と混じる惨状となった〔。「一心丸」は船体中央部に爆弾が命中して炎上沈没、「友福丸」も機銃弾でエンジンが破損して航行不能となった〔沖縄県教育委員会(1974年)、135頁。〕。アメリカ軍機は、「友福丸」も沈没するものと判定しつつ立ち去った〔。「友福丸」から伝馬船が降ろされて救助作業が行われたが、乗船者には体力に劣り泳げない者も多かったため相当数が溺死した〔琉球新報 1983年12月16日。〕。
「友福丸」は浸水しながらもかろうじて沈没を免れ、有り合わせの布をつなぎ合わせて帆を張り〔沖縄県教育委員会(1974年)、118頁。〕、翌7月4日朝にはエンジンも再始動できた〔。乗船者の中に尖閣諸島で古賀商店鰹節製造事業に携わった経験者がいたため、尖閣諸島へと向かうこととなり〔、4日午前9時半頃に魚釣島に到着した。このとき尖閣諸島には、本船団とは別に遭難して漂着した日本兵6人がおり、合流している〔。
上陸当初は米や鰹節など乏しい食糧を出し合って野草入りの雑炊にする協同炊事が行われたが、1週間〔から2週間ほどで打ち切りとなり〔、以後は各自で食糧を集めた。魚釣島には淡水が湧くため飲料水には困らず、石垣島民に別名で「クバ島」と呼ばれるほど食用樹木のビロウ(地方名:クバ)も豊富だったものの、100人以上の食糧としては不十分だった。ネズミやヘビも生息していたが、動きが素早くて捕まえられなかった〔沖縄県教育委員会(1974年)、128頁。〕。サクナ(長命草)などの野草や、磯辺で獲った小魚やヤドカリなどで命をつないだ。体力の低下が激しく、数人の餓死者が出た。毒草を食べて苦しむ者もあった〔。B-24爆撃機も島に連日飛来したが、幸いに死傷者は出なかった〔沖縄県教育委員会(1974年)、119頁。〕。
救援を呼ぶために一部の者が「友福丸」で出発したが、すぐに機関故障を起こして航行不能となり、やむなく船体を放棄して伝馬船で島へと戻った〔。その後、手漕ぎのサバニを作って救助を呼ぶことが計画された。遭難者の中にいた船大工1人と陸軍工兵を中心に、海岸にあった難破船の残骸を資材として建造は進められ、10日ほどで全長5mのサバニが完成した〔琉球新報 1983年12月21日。〕。陸軍兵と船員経験者ら8人の決死隊が編成され〔、出発直前に強く希望する主計准尉1人も加えて、8月12日午後5時頃に石垣島を目指して出発した〔〔。帆走と漕走で進んだ。途中で3度も敵機に遭ったが、攻撃は受けなかった。8月14日午後7時頃に石垣島の川平湾へと到着、川平駐屯の日本軍部隊を経由して独混第45旅団司令部に連絡がされた〔沖縄県教育委員会(1974年)、136頁。〕。
8月15日、事態を知った独混第45旅団の要請を受け、台湾所在の日本軍機が魚釣島に飛行、乾パン金平糖パラシュート投下した〔琉球新報 1983年12月22日。〕。石垣島からも独混第45旅団水軍隊の長谷川少尉が指揮する2-3隻の救助船が軍医を乗せて出発し、終戦の日の後である8月18日に到着した。救助船は魚釣島所在の生存者を収容し、19日午後に石垣島へと帰還した。救出されたにもかかわらず、急に多量の食物を摂取したことによる消化器疾患や、助かったと言う安堵感により死亡した者もあったという〔沖縄県教育委員会(1974年)、123頁。〕。
また、救助船到着時に南小島(別名:トリ島)へ食料採取に出かけたまま帰島不能で消息不明になっていた者が6人あり、取り残されてしまった。6人が魚釣島へ戻ったときには救助船が去った後で、うち2人はその後に病死した。残る4人は、11月に家族が雇った〔台湾漁船によって救助された〔琉球新報 1983年12月23日。〕。
犠牲者数については諸説あるが、『沖縄県史』の統計表では乗船者180人余のうち死亡75人〔、『琉球新報』によれば救出までの死者70人・救出後の衰弱死等20人近くとされている〔。このほか、少ない数値では戦死者約45人・餓死者8人〔、多い数値では約240人乗船で半数死亡とする回想もある。また、『沖縄県史』では、八重山諸島住民の戦闘死者総数179人のうち、船の沈没による死者総数37人となっている〔沖縄県教育委員会(1974年)、18頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「尖閣諸島戦時遭難事件」の詳細全文を読む




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