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伊東祐兵 : ミニ英和和英辞書
伊東祐兵[いとう すけたか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
: [へい]
 【名詞】 1. (1) (common) soldier 2. rank and file 3. (2) army 4. troops 5. (3) warfare 6. strategy

伊東祐兵 : ウィキペディア日本語版
伊東祐兵[いとう すけたか]

伊東 祐兵(いとう すけたか/すけたけ)は、安土桃山時代武将大名日向伊東氏12代〔資料によっては早世した兄・義益や、実権の無かった甥・義賢の家督継承を省略し「11代」とされることもある。〕(伊東氏18代)当主。日向国飫肥藩初代藩主。「南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)」や『伊東氏系図』〔「鹿児島県史料 旧記雑緑拾遺 伊地知季安著作集」所収〕では「伊東氏中興の祖」と書かれている。
== 生涯 ==
伊東義祐の三男。永禄11年(1568年)から飫肥城に入城、島津氏と戦う。しかし、天正5年(1577年)に、福永祐友米良矩重らの謀反に呼応した島津氏の侵攻によって父・義祐が佐土原を追われると、祐兵は父と共に同行する。米良山中から高千穂へ抜け、大友宗麟を頼りに豊後国に逃れた。これにより、日向は島津氏の一円知行に入った。
宗麟は義祐や孫・義賢のため、また日向をキリスト教国にするという自身の大望のため、天正6年(1578年)に日向へ攻め入り島津軍と衝突したが、大友氏は島津氏に大敗した(耳川の戦い)。大友家中の名立たる武将の多くを失ったこの合戦の発端ともいえる伊東氏一族は、大友領内で肩身が狭くなり、祐兵は義賢と祐勝を豊後に残して、父・義祐と正室・阿虎の方、及び河崎祐長権助父子ら従者20余人と共に海を渡り、伊予国道後河野氏を頼り移住した。しかし、主従の生活は窮乏し河崎祐長は酒造りを営んで生活していたという。
その頃、かつて伊東家に世話になり、伊東氏が国を追われて後は河崎祐長から伊東家再興の祈祷を度々頼まれていた山伏三峯という者が、巡行先の播磨国姫路にて、羽柴秀吉黄母衣衆の一人・伊東掃部助(伊東長実か)と出会った(偶然か意図したものかは不明。)。遠祖を同じくする同族である尾張伊東氏の紹介により、祐兵主従は織田氏に仕官することとなり、与力として羽柴秀吉の付属となった。本能寺の変による信長死後はそのまま秀吉の家臣団に組み込まれ、天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、恩賞として「くりから竜の槍」と河内500石を領地として宛てがわれた。天正15年(1587年)の豊臣軍の九州平定の際に先導役を務め上げた功績により、旧領のうち清武曾井に2万8,000石を与えられ、大名として復権した。翌11年(1583年)、かつての本拠である飫肥も与えられ、3万6000石に加増された。その後、朝鮮出兵にも参陣した。慶長4年(1599年)、豊臣姓を下賜されている〔村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年。〕。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伊東氏は西軍に与した。しかし重病の床に伏していたために祐兵は出陣せず、密かに嫡男・祐慶を領国に派遣し軍備を整え、さらに黒田孝高を頼って徳川家康に通じた。領国では家老・稲津重政らが陣頭指揮を執り、西軍の高橋元種の属城である宮崎城を攻撃した。実はこの時点で高橋氏は東軍に寝返っていたため、戦後に宮崎城は返還させられたが、東軍としての参加と貢献は認められ、戦後、徳川家康から所領を安堵された。
同年中に大坂で病死した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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