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ブルータス・ビーフケーキ : ミニ英和和英辞書
ブルータス・ビーフケーキ[ぶる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee

ブルータス・ビーフケーキ : ウィキペディア日本語版
ブルータス・ビーフケーキ[ぶる]

ブルータス "ザ・バーバー" ビーフケーキBrutus "The Barber" Beefcake)のリングネームで知られるエド・レスリーEdward Harrison Leslie1957年4月21日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーフロリダ州タンパ出身。
ハルク・ホーガンとは幼馴染であり、兄のように慕っていた。
== 来歴 ==
1978年のデビュー後、テネシー州メンフィスCWAにて、当時のハルク・ホーガンのリングネームであったテリー・ボールダーにあやかり、エディ・ボールダーと名乗って活動。兄弟タッグチームという設定のもと、テリー&エディのボールダー・ブラザーズとして、ロン・バス&ソニー・キングやブロンド・ボンバーズ(ラリー・レイザム&ウェイン・ファリス)などのチームと対戦した〔。その後、テリー・ボールダーがハルク・ホーガンに改名して注目を浴びるようになると、レスリーもディジー・ホーガンに改名してホーガンの弟と称するなど、ギミックとは知らず2人を本当の兄弟だと信じていたファンも多かった。
1980年にホーガンが新日本プロレスに登場して常連外国人となると、1982年8月にホーガンの弟として、エド・レスリーの名義で新日本に初来日。新日本プロレスはレスリーをホーガンとの「兄弟タッグ」で売り出そうとしたが、レスリーがタッグ結成を拒否し、ホーガンとのマッチメイクを希望したためお蔵入りとなる(拒否の理由は、「自分は兄ホーガンを倒すためにレスラーになったから」というものだった。実際、来日時は一度もタッグを組んでおらず、レスリーは外国人エース格のマスクド・スーパースターサージェント・スローター、さらには国際軍団ラッシャー木村とも共闘し、新日本陣営にいたホーガンと対戦した)。
翌年ホーガンがWWF(現WWE)と契約したことから、ホーガンの仲介でレスリーも1984年よりWWF入りを果たす。WWFでは顔の一部を整形してブルータス・ビーフケーキを名乗り、モデルからプロレス入りした唯一の男をギミックに、ジョニー・バリアントをマネージャーに付けてキザなヒールとして活躍。1985年にはグレッグ・バレンタインとのタッグ "ザ・ドリーム・チーム" を結成し、同年8月24日にバリー・ウインダム&マイク・ロトンドUSエクスプレスを破りWWF世界タッグ王座を奪取。翌1986年4月7日のレッスルマニア2において、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスブリティッシュ・ブルドッグスに敗れるまで戴冠した。
1987年にバレンタイン&バリアントと仲間割れを起こし、ベビーフェイスに転向。アドリアン・アドニスとも抗争を開始し、レッスルマニアIIIで行われたロディ・パイパー対アドニスの髪切りマッチにおいて、パイパーに加担して敗者アドニスの髪を切ったことからザ・バーバー(散髪屋)のニックネームが付けられる。これをきっかけに、園芸用の大バサミを持っての入場パフォーマンスを展開。「ザ・バーバーショップ」なるインタビューコーナーも担当し、理髪店を模したセットを舞台に、主にヒールサイドのレスラーを相手に舌戦を展開した。もともとレスラーとしての技能よりもトークの上手さなどのタレント性が評価されていたこともあり、このフェイスターンは成功を収めた。
しかし1990年パラセーリング中のアクシデントで顔面を強打し長期欠場を余儀なくされる。翌年にフェイスマスクを付けて復帰するが、レギュラー出場は見送られスポット的にリングに上がっていた。1993年に映画出演などで一時引退していたホーガンがWWFに復帰すると、タッグチーム "メガ・マニアックス" を結成。1990年代前半にはホーガンの新日本プロレス参戦の条件としてビーフケーキも同行するという決まりがあったため、新日本でも何度か試合を行っている。
1994年にホーガンがWCWへ移籍すると自身もWCWと契約。当初はケビン・サリバン率いるダンジョン・オブ・ドゥームのメンバーとしてホーガンと敵対していたが、nWoではホーガンの「信者」として共闘した。WCW時代はザ・ブッチャーザ・ゾディアックディサイプルなどリングネームを数多く変えているが、どれも活躍はできなかった。その後、WWF時代に起こしたパラセーリング事故の後遺症によって、しばらく試合を行っていない。
2000年代に入ってからはインディー団体に単発的にゲスト参戦しており、2007年8月にはICP主宰のJCWにてグレッグ・バレンタインとのドリーム・チームを再結成。マッドマン・ポンド&ネクロ・ブッチャーバシャム・ブラザーズなどが参加したJCWタッグ王座争奪の8チーム・エリミネーション・マッチに出場している。
2009年11月にはハルク・ホーガンがオーストラリアにて開催したイベントであるハルカマニアに参加し、ジョン・ハイデンライクオーランド・ジョーダンといった元WWEのレスラーたちと対戦した。
2010年4月26日、カナダオンタリオ州のCWI(Championship Wrestling International)にて、空位となっていたCWIヘビー級王座をジム・ナイドハートと争い、カウントアウトでの勝利でベルトを奪取している。2011年にはブッシュワッカー・ルークとも度々タッグを組んだ。2013年ペンシルベニア州のPWR(Pro Wrestling Rampage)にて、グレッグ・バレンタインとのドリーム・チームを再々結成している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブルータス・ビーフケーキ」の詳細全文を読む




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