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バズ・ソイヤー : ウィキペディア日本語版
バズ・ソイヤー[ちょうおん]

"マッドドッグ" バズ・ソイヤー"Mad Dog" Buzz Sawyer、本名:Bruce Woyan1959年6月14日 - 1992年2月7日)は、アメリカ合衆国プロレスラーフロリダ州セントピーターズバーグ出身。
マッドドッグ(狂犬)の異名通り試合スタイルはラフファイトが中心で、奇妙な雄叫びをあげたり、対戦相手の尻に噛みついたりなど異色のレスラーでもあったが、レスリングの下地を持つ試合巧者としても実績を残した。
== 来歴 ==
ディキシー・ホリンズ・ハイスクールではレスリングをはじめアメリカンフットボール陸上競技でも活躍。1979年エディ・グラハムの主宰する地元フロリダNWA傘下団体CWFでプロレスラーとしてデビュー。その後もNWA圏を転戦してキャリアを積み、アラバマサウスイースト地区では1980年2月16日、ボビー・ジャガーズを下してNWAサウスイースタンTV王座を獲得。同年6月2日にはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナミッドアトランティック地区にてマット・ボーンと組み、4チーム参加のトーナメント決勝でジミー・スヌーカ&アイアン・シークを破りNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得した。
1982年太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト地区にて実弟ブレット・ソイヤー(ブレット・ウェイン)とのタッグで活動。この時期までは主にベビーフェイスのポジションにいたが、1983年ヒールに転向してジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦。ポール・エラリングのリージョン・オブ・ドゥームに加入し、トミー・リッチとのNWAナショナル・ヘビー級王座を巡る抗争で名を馳せる。同年下期にはエラリングと仲間割れして一時的にベビーフェイスに戻り、ブレット・ソイヤーとの兄弟タッグを再結成。ロード・ウォリアーズを相手にNWAナショナル・タッグ王座を争った。
1984年からはヒールのポジションに定着し、古巣のフロリダではケビン・サリバンと結託してダスティ・ローデスビリー・ジャック・ヘインズと抗争。同年はキャプテン・ルー・アルバーノマネージャーに迎えてWWFにも参戦、S・D・ジョーンズを破ってTVデビューを飾り、ブライアン・ブレアートニー・ガレアイワン・プトスキー、ジミー・スヌーカとも対戦したが、短期間で離脱している。なお、当時WWFには大ベテランのマッドドッグ・バションが所属していたために、ソイヤーはブルドッグBulldog)のニックネームをつけられていた。
WWF離脱後の1984年10月には全日本プロレスに初来日しているが、短期間の特別参加ということもあり、また日本でのネームバリューの高いハーリー・レイスリッキー・スティムボートも同じく特別参加選手として来日していたため、活躍の機会には恵まれなかった。同年の世界最強タッグ決定リーグ戦にもワンマン・ギャングとのタッグで出場が予定されていたものの、直前に来日中止となり、結局全日本プロレスには一度限りの参戦となった〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P46(2002年、日本スポーツ出版社)〕。
1985年からはビル・ワットMSWAおよびUWFで活動し、ジム・ドゥガンブッチ・リードテリー・テイラーテッド・デビアススティーブ・ウィリアムスらと対戦。MSWAからUWFへの団体名変更に伴い、1986年3月にはミッドサウスTV王者ディック・スレーターからベルトを譲り受け、UWF世界TV王座の初代チャンピオンにもなっている。UWFではジョージアでの宿敵だったディック・マードックマスクド・スーパースターとも共闘した〔。
1986年の下期よりフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCWA(WCCW)に進出、6月16日にクリス・アダムスからTV王座を奪取し、7月4日にはテキサス・ヘビー級王座も獲得。タッグでは若手時代の盟友マット・ボーンと組んでWCWA世界タッグ王座にも戴冠するなどトップ戦線で活躍し、ケビンケリーのフォン・エリック兄弟をはじめ、当時売り出し中だったディンゴ・ウォリアーとも抗争を展開した。
1987年1月、全日本プロレスと新日本プロレスが来日をそれぞれ発表したが、最終的にはWCCWとの提携ルートで新日本プロレスにブレット・ソイヤーを帯同して初参戦、兄弟タッグでアントニオ猪木&坂口征二の黄金コンビや藤原喜明&木戸修旧UWF勢とも対戦した。以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、サルマン・ハシミコフソビエト連邦のレッドブル軍団とはアマチュア時代のレスリング・スタイルで対決。藤波辰巳武藤敬司とも好勝負を行い、レイジング・ブルことマニー・フェルナンデスとのタッグでも活躍した。
1989年にNWA(WCW)に主戦場を戻し、ダラスでもマネージャーを務めていたゲーリー・ハート率いるヒール・ユニット、J・テックス・コーポレーションJ-Tex Corporation)に加入。メンバーのテリー・ファンクグレート・ムタドラゴンマスターらと共に、リック・フレアーアーン・アンダーソンフォー・ホースメンと抗争を繰り広げた。ユニットの解散後はフロリダでの盟友ケビン・サリバンと組み、1990年2月25日開催のPPV "WrestleWar 1990" ではジョニー・エース&シェーン・ダグラスのダイナミック・デューズと対戦している。
WCW離脱後はインディー団体を転戦していたが、1992年2月7日ヘロインの過剰摂取により死去〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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