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ワンマン・ギャング : ミニ英和和英辞書
ワンマン・ギャング
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ワンマン・ギャング : ウィキペディア日本語版
ワンマン・ギャング

ワンマン・ギャングThe One Man Gang、本名:George Gray1960年2月12日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーサウスカロライナ州スパータンバーグ出身。
1980年代を全盛期に、スーパーヘビー級のモンスターヒールとして南部の各主要団体やWWFで活動した。WWFにおける "アフリカン・ドリーム" アキーム"The African Dream" Akeem)としての活躍も知られる。
== 来歴 ==
1977年に17歳でプロレスラーとしてデビュー。キャリア初期はアンジェロ・ポッフォが旗揚げしたケンタッキー州レキシントンのICWにて、クラッシャー・ブルームフィールド(''Crusher Broomfield'')のリングネームで活動する〔。1982年からはテネシー州メンフィスCWAに参戦、ジェリー・ローラーダッチ・マンテルの保持するタイトルに挑戦した。
その後、ビル・ワット主宰のMSWAワンマン・ギャング(''The One Man Gang'')と改名。超巨漢の若手ヒールとして台頭し、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。以降、NWA南部テリトリーを転戦。ジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWでは1983年5月23日、ケリー・キニスキーと組んでマイク・ロトンド&ルーファス・ジョーンズを破り、空位となっていたNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。エディ・グラハム主宰のCWFではダスティ・ローデスブラックジャック・マリガンと抗争し、1984年11月にはマリガンからNWAフロリダ・ブラスナックル王座を奪取した。
その間、1983年9月に全日本プロレスに初来日。スタン・ハンセンブルーザー・ブロディハーリー・レイステッド・デビアスといった豪華メンバーの中でさほど注目はされていなかったが下馬評以上の健闘を見せ、テレビ中継にてジャンボ鶴田とのシングルマッチも組まれた。シリーズ最終戦である11月3日の後楽園ホール大会では、ハンセンと組んでジャイアント馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。翌1984年末には鶴見五郎とのチームで世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場している(当初はバズ・ソイヤーがパートナーとなる予定だった)。
1985年からはテキサス州ダラスのWCCWに定着し、それまでの長髪をモヒカン刈りに変え、イリノイ州シカゴ出身を自称するストリートギャング系のヒールに変身。ブルーザー・ブロディ、ケビン&ケリー・フォン・エリックテリー・ゴディザ・グレート・カブキらと抗争を繰り広げた。1986年2月には全日本プロレスへの3度目の来日を果たし、キラー・カーンクラッシャー・ブラックウェルとの巨漢対決もタッグマッチで実現した。
1986年11月9日にはオクラホマ州タルサにて、ビル・ワット主宰のUWF(旧MSWA)認定の世界ヘビー級王座を獲得。以降、ジム・ドゥガンテリー・テイラーエディ・ギルバートスティーブ・ウィリアムス、バズ・ソイヤー、前王者テリー・ゴディらを相手に防衛戦を行い、1987年4月19日にビッグ・ババ・ロジャースに敗れるまで戴冠した。
UWF離脱後の1987年5月よりWWFに登場。王者ハルク・ホーガンに挑戦する一方、バンバン・ビガロとも巨漢同士の抗争を展開。1988年3月27日のレッスルマニアIVでは、空位となったWWF世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場した。同年9月、 "アフリカン・ドリーム" アキーム(''"The African Dream" Akeem'')に変身。白人でありながらイスラム名のアフリカ人を名乗り、マネージャースリックが歌う入場曲 "Jive Soul Bro." に合わせてラップを踊るというコミカルなヒールへのキャラクター・チェンジを行う。ビッグ・ボスマンとのタッグチームツイン・タワーズ(''The Twin Towers'')でも活躍し、ハルク・ホーガン&ランディ・サベージのメガ・パワーズと抗争した。
1990年下期にWWFを離脱し、WCWに移籍。リングネームをワンマン・ギャングに戻し、ケビン・サリバン率いるヒール軍団のダンジョン・オブ・ドゥームに加入する。その後はインディー団体を転戦し、1995年にWCWと再契約。同年12月27日、新日本プロレス佐々木健介が剥奪されたUSヘビー級王座の新王者に認定された。WCW離脱後は1997年7月にSPWFへ来日、矢口壹琅とタッグを組み、久々に日本に登場。1998年11月にはFMWに参戦、サブゥー&金村ゆきひろとのトリプル・スレット・マッチに出場した。同年には短期間ながらECWにもフル・ブラッデッド・イタリアンズのメンバーとして登場している。
2000年心臓発作を起こしてからはセミリタイア状態となり、インディー団体に単発的に出場。2001年にはプエルトリコWWCに遠征し、カルロス・コロンアブドーラ・ザ・ブッチャーハードコア王座を争っている。WWEにも同年4月1日のレッスルマニアX-Sevenにおけるギミックバトルロイヤルにワンマン・ギャングとして出場した(当初はアキームとして参加予定だったが、ウェイトがダウンしたためコスチュームが合わなくなってしまったという)。
以降は、2008年2月29日にフィラデルフィアのインディー団体チカラで行われた6人タッグマッチのトーナメントに、アックス&スマッシュデモリッションと "Team WWF" なるトリオを結成して出場している。2009年3月28日には、同じくペンシルベニア州のIWC(International Wrestling Cartel)に登場、MSWAからWWFを通しての宿敵ジム・ドゥガンとメインイベントで対戦するも敗退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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