翻訳と辞書
Words near each other
・ スティーブ・ウイリアムス
・ スティーブ・ウォズニアク
・ スティーブ・ウォズニアック
・ スティーブ・ウォズニャク
・ スティーブ・ウォズニャック
・ スティーブ・エイベリー
・ スティーブ・エトウ
・ スティーブ・エドルフセン
・ スティーブ・エルキントン
・ スティーブ・オベット
スティーブ・オルソノスキー
・ スティーブ・オンティベロス
・ スティーブ・オンティベロス (内野手)
・ スティーブ・オンティベロス (投手)
・ スティーブ・オー
・ スティーブ・オージェリー
・ スティーブ・オースチン
・ スティーブ・オースティン
・ スティーブ・オースティン S.W.A.T.
・ スティーブ・オーデカーク


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

スティーブ・オルソノスキー : ミニ英和和英辞書
スティーブ・オルソノスキー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スティーブ・オルソノスキー : ウィキペディア日本語版
スティーブ・オルソノスキー[ちょうおん]

スティーブ・オルソノスキーSteve Olsonoski1954年7月3日〔 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミネソタ州イーダイナ出身のポーランド系アメリカ人〔DVD-BOX『国際プロレスクロニクル 上巻』DISC.3(2010年、クエスト)〕。
スティーブ・OSteve O)の略称でも知られる。地元ミネソタのAWAを主戦場に、クリーンファイトを身上とする正統派の二枚目ベビーフェイスとして活躍した。
== 来歴 ==
ミネソタ大学卒業後、体育教師を経て、AWAの総帥バーン・ガニアのレスリング・キャンプでトレーニングを受け1978年にデビュー(父親のラリー・オルソノスキーもミネソタ大学出身であり、バーン・ガニアとはアメリカンフットボールのチームメイトであったという)。
グリーンボーイ時代はブラックジャック・ランザボビー・ダンカンボブ・オートン・ジュニアヒール勢のジョバーとなってキャリアを積む。1980年に入るとクラッシャー・ブラックウェルとの抗争で頭角を現し、ベビーフェイスの新鋭としてグレッグ・ガニアディノ・ブラボーティト・サンタナらのパートナーに起用され、当時ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスのイースト・ウエスト・コネクションが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦した〔。
1980年の下期よりNWAジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に転戦し、スタン・レーンミスター・サイトーオレイ・アンダーソンマスクド・スーパースタージョー・ルダックなど同地区のトップ・ヒールと対戦。1981年ニューイヤーズ・デイにはアトランタオムニ・コロシアムにてレス・ソントンNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦し、1月16日と2月8日にはケビン・サリバンボビー・イートンからナショナルTV王座を奪取した。
ジョージアで活躍中の1981年4月、国際プロレスの『ビッグ・チャレンジ・シリーズ』に初来日。同時来日したポール・エラリングと共に「まだ見ぬ強豪」の1人として注目され、開幕戦ではアメリカに再修行に出ていた阿修羅・原の凱旋帰国第1戦の対戦相手を務め、最終戦の5月16日にはラッシャー木村IWA世界ヘビー級王座に挑戦した(いずれも後楽園ホール大会)〔。なお、エラリングとオルソノスキーは1980年の初頭にAWAでタッグチームを組んでいたが〔、来日時はエラリングがヒールのポジションだったため、両者が組んでIWA世界タッグ王座に挑戦することはなかった〔。
帰国後もジョージアでは、5月29日にモンゴリアン・ストンパーを下してナショナル・ヘビー級王座を獲得。6月10日にはテッド・デビアスと組んでマイケル・ヘイズテリー・ゴディファビュラス・フリーバーズを破り、ナショナル・タッグ王座にも戴冠している。同年9月21日にはWWFマディソン・スクエア・ガーデン定期戦にも出場しており、シングルマッチでロン・ショーから勝利を収めたほか、ペドロ・モラレスミル・マスカラスリック・マーテルキラー・カーンアンジェロ・モスカカート・ヘニングらと共にバトルロイヤルにも参加した。
1982年より古巣のAWAに戻り、テキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングやテネシー州メンフィスCWAなど、AWAの提携団体にも参戦。サンアントニオでは1983年のニューイヤーズ・デイに行われたサウスウエスト・ヘビー級王座の新王者決定トーナメントに出場したが、1回戦でアドリアン・アドニスに敗退した。
1984年1月、全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』に再来日し、1月10日に室蘭にてジャンボ鶴田インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦〔。前年にブルーザー・ブロディを破って新王者となった鶴田の、2度目の防衛戦の相手を務めた(なお、全日本プロレスの興行には1981年の国際プロレスへの初来日時にも顔を見せており、試合後のテリー・ファンクをリング上で介抱する姿がテレビでも放送された)。
以降もAWAを活動の拠点に、当時AWAを席巻していたロード・ウォリアーズや、後にAWA世界ヘビー級王者となるラリー・ズビスコらと対戦。ガニアがNWAのジム・クロケット・ジュニアらと共同で立ち上げたWWFの対抗勢力 "Pro Wrestling USA" の興行にも参加し、1985年4月21日にセントポールで開催されたビッグイベント "StarCage 1985" にはトム・ジンクとのコンビで出場した。
膝の故障もあって1980年代後半にセミリタイアするも、AWAには最末期まで単発参戦し、1990年にはスーパー・ニンジャ(Super Ninja)なる黒頭巾を被った忍者ギミック覆面レスラーにも変身〔。ケン・パテラなどと対戦した。なお、スーパー・ニンジャは1986年にAWAで海外再修行を行っていた高野俊二が扮したキャラクターがオリジナルである。
AWA崩壊に伴い自身もリングを離れ、引退後はミネアポリスにて金融商品投資アドバイザーとなって活動している〔。なお、近年も "Steve O" と名乗る選手がナッシュビルのインディー団体NWAメインイベント・レスリングなどに出場しているが、オルソノスキーとは別人である〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スティーブ・オルソノスキー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.