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カール・フォン・クラウゼビッツ : ミニ英和和英辞書
カール・フォン・クラウゼビッツ[かー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カール・フォン・クラウゼビッツ ( リダイレクト:カール・フォン・クラウゼヴィッツ ) : ウィキペディア日本語版
カール・フォン・クラウゼヴィッツ[ちょうおん]

カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(、1780年7月1日〔本人は誕生日を1780年6月1日と信じていたが、教区の登記簿によれば7月1日となっていた。〕 - 1831年11月16日)は、プロイセン王国軍人軍事学者である。
ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。特記すべき業績としては絶対的戦争、政治的交渉の延長としての戦争概念、摩擦戦場の霧重心軍事的天才防御の優位性、攻勢極限点勝敗分岐点などがある。
クラウゼヴィッツの思想に影響を与えた人物にはフリードリヒ2世ナポレオン・ボナパルトゲルハルト・フォン・シャルンホルストなどがおり、逆に影響を受けた人物にはヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケコルマール・フォン・デア・ゴルツアルフレート・フォン・シュリーフェンクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルなどのドイツ軍の研究者や、エンゲルスなどの革命戦略家、そして海軍戦略家のジュリアン・コーベットや電撃戦の理論家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなど、研究者に幅広い影響を与えている。
== 生涯 ==

===少年時代===
1780年にプロイセン王国のマクデブルク市の東北20キロ先にあるブルク町で生まれる。クラウゼヴィッツ家はポーランド系ドイツ人で、父親フリードリヒ・ガブリエル・クラウゼヴィッツは、彼が生まれた時には徴税官であった。ガブリエルは七年戦争の末期に少尉として従軍し、戦後の1763年に中尉に昇進し、退役してからブルクの徴税官となった。母イェリアンと4人の息子と2人の娘を儲けており、カール・クラウゼヴィッツは一番下の弟であった。ガブリエルに影響があった陸軍のフォン・フント少佐の取り計らいもあって、4人の息子の3人は将校とされており、クラウゼヴィッツは1792年に12歳でポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊にユンカーとして入隊した。第一次対仏同盟戦争でフェルディナント親王連隊は1794年3月にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。その行軍の途上でクラウゼヴィッツは旗手を務めている。戦闘は4月1日に開始され、砲兵が配置につく6月18日まで続き、7月23日にフランス軍が降伏する2日前に将校相当の准士官に昇進した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Carl von Clausewitz 」があります。




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