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オットー・エーデルマン : ミニ英和和英辞書
オットー・エーデルマン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オットー・エーデルマン : ウィキペディア日本語版
オットー・エーデルマン[ちょうおん]

オットー・エーデルマン, 1917年2月5日 - 2003年5月14日)は、オーストリアの歌手()。
リヒャルト・シュトラウスばらの騎士』のオックス男爵、ワーグナーニュルンベルクのマイスタージンガー』のハンス・ザックス、モーツァルトドン・ジョヴァンニ』のレポレロを得意とし、40を超えるレパートリー〔#Bach Cantatas〕を駆使して国際的に活躍した。'', 1917年2月5日 - 2003年5月14日)は、オーストリアの歌手()。
リヒャルト・シュトラウスばらの騎士』のオックス男爵、ワーグナーニュルンベルクのマイスタージンガー』のハンス・ザックス、モーツァルトドン・ジョヴァンニ』のレポレロを得意とし、40を超えるレパートリー〔#Bach Cantatas〕を駆使して国際的に活躍した。
==生涯==
オットー・エーデルマンは第一次世界大戦末期の1917年2月5日にオーストリア=ハンガリー帝国ニーダーエスターライヒ州で生まれる〔#NYT〕〔#Telegraph〕。幼少期から音楽的才能を発揮し、幼稚園の出し物で早くも歌を披露した〔#OEBIO〕。また、音楽のみならずスポーツ、特にボクシングを好み、幼少期のアイドルはジーン・タニージャック・デンプシーで、家の窓枠にその名前を刻むほどであった〔。11歳のときに初めてウィーン国立歌劇場でオペラを鑑賞し、その時の演目はレオンカヴァッロの『道化師』で、カニオを歌っていたのはあった〔。やがてエーデルマンはウィーン国立音楽アカデミーに入学し、テオドール・リアハンメルとの教えを受けた〔〔〔#Grove〕。1937年、エーデルマンは弱冠20歳でナチス・ドイツテューリンゲン州ゲーラでモーツァルト『フィガロの結婚』に出演してデビューを飾る〔〔。翌1938年から1940年まではに所属し、モーツァルト『後宮からの誘拐』のオスミンやコルネリウス『』のアブドラ・ハッサンのほか、シュトラウスの『アラベラ』のヴァルトナー伯爵を作曲者自身の指揮で歌ったこともあった〔〔。しかし、時代はすでに第二次世界大戦に突入しており、エーデルマンも歌手としてのキャリアはドイツ国防軍による徴兵でいったん休止せざるを得ず、の高射砲部隊や独ソ戦の戦場などに赴く〔。やがてナチス・ドイツは崩壊してエーデルマンも赤軍捕虜となり、リトアニアの収容所に送られた〔〔〔。
1947年秋、釈放されてオーストリアに戻ったエーデルマンは歌手活動を再開させる〔。ウィーン国立歌劇場は爆撃で崩壊しており、フォルクスオーパーアン・デア・ウィーン劇場を仮住まいとして公演を継続していた時期にあたっていたが、エーデルマンはフォルクスオーパーで歌劇場のオーディションを受けて合格し、1947年11月30日にフォルクスオーパーでのウェーバー『魔弾の射手』の隠者で、ウィーン国立歌劇場所属歌手としてデビューを果たした〔〔〔〔。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーヨーゼフ・クリップスヘルベルト・フォン・カラヤンクレメンス・クラウスハンス・クナッパーツブッシュといった指揮者との共演を重ね〔、1951年には第二次世界大戦後初開催のバイロイト音楽祭に出演し、カラヤンの指揮で『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを初めて歌い、フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェン交響曲第9番(第九)のソリストも務めた〔〔〔#Hunt p.318〕。この1951年にはバイロイトのほかに、3月から4月にかけてフルトヴェングラー指揮のワーグナー『パルジファル』のアンフォルタスでスカラ座にデビューしている〔〔#Hunt p.316〕。翌1952年1月、エーデルマンはスカラ座におけるカラヤン指揮の『ばらの騎士』の公演で、初めてオックス男爵を歌う〔。夏にはバイロイト音楽祭に登場してクナッパーツブッシュ指揮により『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを再び歌ったが、バイロイトへの出演はこの年限りとなった〔〔〔。バイロイトに引き続いてエディンバラ音楽祭にの引っ越し公演に客演という形で初登場し、レオポルト・ルートヴィヒの指揮でハンス・ザックスを歌った〔〔。
1953年、エーデルマンはザルツブルク音楽祭にデビューし、フルトヴェングラー指揮の『ドン・ジョヴァンニ』で初めてレポレロを歌う〔〔#Hunt p.325〕。翌1954年のザルツブルク音楽祭では、同じくフルトヴェングラーの指揮でレポレロと『魔弾』の隠者を歌い〔〔#Hunt p.329〕、前者はによる映画でその舞台姿を残した。この年、フルトヴェングラーとはルツェルン音楽祭での「第九」公演でも共演したが〔、フルトヴェングラーは11月30日に亡くなった。その直前の11月11日にはメトロポリタン歌劇場(メト)にデビューし、フリッツ・シュティードリーの指揮でハンス・ザックスを歌った〔〔。エーデルマンのレパートリーは広かったが、メトではドイツもののレパートリーに絞って活躍し、ハンス・ザックスやオックス男爵のほかに『指環』のヴォータン、『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王、『ローエングリン』のハインリヒといったワーグナー諸作品のほか、ベートーヴェン『フィデリオ』のロッコなどを歌っている〔〔。1960年のザルツブルク音楽祭、新たに祝祭大劇場がオープンし、こけら落としとしてカラヤン指揮の『ばらの騎士』が上演され、エーデルマンも得意のオックス男爵でオープンに花を添えた〔〔〔。この公演もツィンナーの手により映像化された。
オックス男爵の映像が残された1960年、エーデルマンはイルゼ・マリア・シュトラウブと結婚し、1962年6月15日に長男ペーター〔、1968年4月12日に次男が誕生し〔、ペーターとパウル・アルミンはともにバリトン歌手となった。子どもは3人で、ペーターとパウル・アルミンのほかに娘が一人いる〔〔。1960年代後半からはレパートリーと出番を徐々に絞るようになり、メトにおいてはハンス・ザックスとオックス男爵、ロッコのみを歌ったが、1969年以降はオックス男爵のみを歌うだけとなった〔。ウィーンにおいても1970年代には、フォルクスオーパーで上演されるオルフ』やロルツィング『ロシア皇帝と船大工』、ヨハン・シュトラウス2世『ウィーン気質』などの軽いオペラに出演するようになった〔。1976年4月7日、エーデルマンはジェームズ・レヴァイン指揮の『ばらの騎士』でオックス男爵を歌い、メトにおけるこの公演をオックス男爵の歌い納めとした〔。同じ年の12月16日、ウィーン国立歌劇場における『アラベラ』の公演でヴァルトナー伯爵を歌い、この公演を最後に現役を引退した〔〔。引退後はウィーン国立音楽大学で長年教鞭をとり、2003年5月14日にウィーン・で86年の生涯を終えた〔〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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