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ナチス・ドイツ : ウィキペディア日本語版
ナチス・ドイツ

ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP、ナチ党) 支配下の独裁政治であった、1933年から1945年までのドイツ史における期間である。社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結する1945年5月に連合国軍によって敗北し、ナチス・ドイツは消滅した。
1933年1月30日、ヴァイマル共和国パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領により、ヒトラーはドイツ国首相に任命された。まもなく大統領令と全権委任法によって憲法を事実上停止したうえに、対立政党の禁止や長いナイフの夜による突撃隊粛清などにより政治的敵対勢力を全て抹殺し、ヒトラーを中心とする独裁体制を強固にした。一方で政府は組織的かつ協力的な組織ではなく、ヒトラーの情実及び権力を求めて闘争を行う党派の集合体であった。1934年8月2日のヒンデンブルク死後、ヒトラーは首相府及び大統領府並びに両権限を統合した上に個人として国家元首の権能を吸収し、名実ともにドイツの独裁者になった〔 南利明〈論説〉指導者‐国家‐憲法体制の構成 静岡大学法政研究第7巻3号〕。国家元首となったヒトラーの地位は日本語で総統と呼ばれる。世界恐慌の後、ナチスは経済的安定を回復させ、多額の軍事支出及び混合経済を用いて大量失業を解消した(ナチス・ドイツの経済)。広範囲にわたる公共事業には、高速道路のアウトバーン建設が含まれていた。
人種主義、特に反ユダヤ主義は、同政権の中心的特徴であった。ゲルマン人 (北方人種) は、最も純粋なアーリア人種ひいてはだと考えられた。自由主義者、社会主義者、共産主義者は、殺害、投獄又は国外追放された。キリスト教会もまた多くの指導者が投獄され、抑圧された。教育は人種主義見地により、人口政策、健康に重点が置かれた。女性の就業及び教育機会は奪われた。娯楽及び旅行は歓喜力行団のプログラムにより組織化された。宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは世論操作のため、映画、大規模集会、ヒトラーの洗脳演説を有効活用した。政府は芸術的表現を統制し、特定の芸術形式を奨励し、それ以外は頽廃芸術として禁止又は抑圧した。1936年夏季オリンピックにより国際舞台で、ドイツがナチ党の唱える理想国家である「第三帝国」であるとアピールされた。
ナチス・ドイツは次第に積極的な領土要求を行い、要求が満たされなければ戦争を行うと脅迫した。1938年及び1939年には、オーストリア及びチェコスロバキアを占拠した。ヒトラーはヨシフ・スターリン条約を結び、1939年9月にポーランドに侵攻し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発した。イタリア王国及び東欧諸国と同盟を結び(枢軸国)、1940年までにドイツはヨーロッパの大部分を制圧し、イギリスを脅かした。ポーランドのドイツ領に併合されなかった地域にはポーランド総督府が設立された。1941年のソビエト連邦へのドイツの侵略後、ドイツとソ連は壮絶な独ソ戦の死闘を繰り広げた。東部占領地域は残忍な勢力下に置かれ、ヒトラーの統治に対する反対勢力は情け容赦なく抑圧された。この戦いの最中、ナチス・ドイツ政権の人種政策は、何百万ものユダヤ人及び好ましくないと見なされた生きるに値しない命強制収容所及び絶滅収容所へ投獄、殺害したホロコーストにおいて頂点に達した。1943年にドイツは大規模な軍事的敗北を被った。1944年にはドイツへの大規模な爆撃が段階的に増大したことと、連合国軍の反攻によりドイツの勢力圏は縮小の一途をたどった。6月のフランスへの連合国の侵攻後、ドイツは東西の他の連合国によって制圧された。ベルリン攻防戦が行われる最中の1945年4月30日のヒトラーの自殺によってナチス政権は事実上崩壊し、5月8日ドイツ国防軍が署名した降伏文書が発効したことによって、ナチス・ドイツ体制は完全に終焉した(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。終戦間際でのヒトラーの敗北への拒絶は、ドイツ国土の大規模な破壊と、さらなる犠牲を産むことになった(ネロ指令)。戦勝した連合国は非ナチ化政策を開始し、多くのナチス指導者の残党を戦争犯罪でニュルンベルク裁判の公判に付した。
== 国名 ==

正式な国名はドイツ帝国ヴァイマル共和政と同じく「ドイツ国(、ドイチェス・ライヒ)」であった。
1938年オーストリア併合以降、民間などで「大ドイツ国(、グロースドイチェス・ライヒ)」の呼称が使われ始め、グロースドイッチュラント師団などの部隊名にも同様の表記が用いられた。1943年6月24日には総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが公用文書「Erlass RK 7669 E」の中で初めて「大ドイツ国」の用語を用いた〔Erlass RK 7669 E ウィキメディア・コモンズ〕。同年10月24日以降は切手にも大ドイツ国の名称が印刷された。ただし、正式な国号変更は最後まで行われなかった。
「ナチス・ドイツ」という呼称(蔑称)は、党が政権をとる前から世界に広く知られていた〔日本においても昭和7年(1932年9月29日付の『中外商業新報』で「ドイツ社民の統制経済案 ナチス案に対抗」という表記が用いられている。〕。英語圏では党の政権掌握後のドイツ国を指して「Nazi Germany」という呼称が用いられた。日本においては昭和8年(1933年)10月27日付の『大阪毎日新聞』で「ナチス独政府」〔神戸大学 電子図書館システム 神戸大学附属図書館新聞記事文庫〕という表記が見られ、昭和10年(1935年)4月28日付の『大阪朝日新聞』では「ナチス・ドイツ」の呼称が用いられている。昭和11年(1936年)5月31日付『大阪朝日新聞』の天声人語でも「ナチ・ドイツ」〔新聞記事文庫 : 大阪朝日新聞 1936.5.31 〕と表記され、戦時中の昭和18年(1943年)1月11日でも「ナチス・ドイツ」という語が用いられた〔新聞記事文庫:東京朝日新聞 1943.1.11 神戸大学附属図書館新聞記事文庫〕〔同盟国であったにもかかわらず日本ではナチス(ナチ)が蔑称であるという認識は薄く、来日したヒトラーユーゲントを歓迎する歌を依頼された北原白秋も「万歳ヒトラー・ユーゲント」という歌において「万歳、ナチス」の語を使用している。〕。
またドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承する「理想国家」という意味で、「第三帝国(、)」という呼称も宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、後年ナチス政府はこの語の使用を禁じた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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