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オイラー : よみがなを同じくする語

オイラー力
オイラー : ミニ英和和英辞書
オイラー[おいらー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オイラー ( リダイレクト:レオンハルト・オイラー ) : ウィキペディア日本語版
レオンハルト・オイラー[おいらー]


レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は18世紀数学者であり、天文学者(天体物理学者)である。18世紀の数学の中心となって、続く19世紀の厳密化・抽象化時代の礎を築いたとされる〔 日本数学会編『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「オイラー」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541 〕。スイスバーゼルに生まれ、現在のロシアサンクトペテルブルクにて死去した。
== 生涯 ==
オイラーの父も数学の教育を受けた人物であったが、父はオイラーに自分の後を継いで牧師になることを望んでいた。しかしヨハン・ベルヌーイによって才能を見いだされ、オイラー自身の数学への興味もあって数学者になる道を選んだ〔。1727年に、オイラーはサンクトペテルブルクの科学学士院に赴任し〔、ダニエル・ベルヌーイの同僚となった。この地で、彼はバーゼル問題を解決したことで有名になった。だが、エカチェリーナ1世の突然の死でロシアは政情不安となり、視力の悪化も伴って、研究生活は不安定なものとなった。1741年、プロイセン王国フリードリヒ2世の依頼でベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住〔。その業績からフリードリヒ2世に「数学のサイクロプス(単眼の巨人)」と賞賛される(右目を失明していたため)。彼は『無限解析入門』 "Introductio in analysin infinitorum" と『微分学教程』 "Institutiones calculi differentialis" という2冊の数学書を出版した。また、オイラーはアルンハルト=デッサウ公女の教育のために科学への入門書を執筆し、その後、『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』 "Lettres à une Princesse d'Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie" として出版された。この本は欧米で一般の読者を対象にした科学書として広く読まれ、オイラーの最も有名な著書となった。当時ベルリン・アカデミーには、ヴォルテールもいたが、二人が親密になることはなかった。エカチェリーナ2世が帝位についたことで、1766年ごろオイラーは再びサンクトペテルブルクに戻った〔。1738年ごろより視力が低下し〔、1771年ごろ(1766年とする説もある)には両目を完全に失明したものの、その後も研究意欲が衰えることは全くなく〔、彼は論文の執筆を口述筆記に頼りながら、1783年に76歳で亡くなるその日まで精力的な研究生活を続けた。墓はアレクサンドル・ネフスキー大修道院にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レオンハルト・オイラー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Leonhard Euler 」があります。




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