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真木島昭光 : ウィキペディア日本語版
真木島昭光[まきしま あきみつ]
真木島 昭光(まきしま あきみつ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。苗字は真木嶋槇島とも。室町幕府の第15代将軍足利義昭の側近で、その偏諱を賜り昭光と名乗る。玄蕃頭を称す。
== 生涯 ==
一色氏の一族である一色輝元(輝光)の子であり、輝元が山城国槇島城を与えられて槇島(真木島)を姓とする。幕府に奉公衆の一員として仕えた。ただし、槇島(真木島)氏に関しては第9代将軍・足利義尚の奉公衆として「真木嶋六郎藤原光通」の名前があり、輝元父子がその末裔あるいは同家の養子であった可能性もある〔木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2〕。
昭光の名前が幕臣として登場するのは義昭の時代に入ってからである〔が、織田信長と対立した足利義昭を迎え、反信長の兵を挙げた義昭に従って織田氏と戦うが、羽柴秀吉の軍に対し開城(槇島城の戦い)。その後、信長に京都を追われ流浪する義昭に従い河内国三好義継中国地方毛利輝元らの元へ随行した。一色藤長が中国地方への下向に加わらず義昭の下を去った後は義昭の側近と筆頭となる〔。義昭が毛利氏の庇護の下、鞆の浦において御所を構え将軍としての活動(鞆公方)を再開し、京都復帰のため反信長同盟(信長包囲網)の再構築を目論むと、将軍側近の筆頭として一色昭秀上野秀政らとともに使者や御内書の添状の作成などに携わった。
信長が死去し豊臣秀吉が台頭した後も近臣として仕え、幕府再興のため薩摩国島津氏への援助要請や、豊臣秀吉と誼を通じ、義昭の京都への帰還の実現にも関わった。また、毛利輝元が豊臣政権への帰服のため上京し義昭と再会した際には奏者としての任務を果たした。義昭が死去すると、西笑承兌とともに秀吉の命を受けて葬儀を担当した〔『鹿苑日録』〕。
その後、豊臣氏に2,000石で仕えて奏者番を務めた。秀吉の死後は豊臣秀頼に引き続き仕え、大坂の陣でも豊臣方に属し、慶長19年(1614年)10月にはに出陣している。戦後、細川忠興加藤嘉明らの嘆願により助命されて細川氏に仕え、1,000石を給されて中津城留守居役を勤めた。没年は不詳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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