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黒田正宏 : ミニ英和和英辞書
黒田正宏[くろだ まさひろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

黒田正宏 : ウィキペディア日本語版
黒田正宏[くろだ まさひろ]

黒田 正宏(くろだ まさひろ、1947年12月21日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手捕手)。
== 来歴 ==
兵庫県立姫路南高等学校から法政大学に進学。1学年上に田淵幸一がおり、東京六大学リーグ戦で活躍したのは最上級生になってからであった。1969年秋季リーグでは、同期のエース山中正竹を擁し優勝に貢献する。同年の第8回アジア野球選手権大会日本代表。大学同期に山中の他、江本孟紀堀井和人がいる。卒業後は本田技研に入社。1970年都市対抗野球で本塁打を放ち、チームの後楽園初勝利、準々決勝進出に貢献して注目される。同年の社会人ベストナインにも選出された。
1970年のドラフト6位で南海ホークスに入団。南海時代は野村克也が君臨していたため二番手捕手であったが、1977年の野村退団後、正捕手に抜擢される。なお南海時代は、監督兼任だった野村に捕手としての基礎教育を受けた。1981年の南海は西武にシーズン通算対戦成績で勝ち越していたが、正捕手・黒田の移籍後は負け越しが続き、勝ち越したのは親会社がダイエーになった22年後の2003年シーズンであった。
その後は根本陸夫管理部長の要望により、1982年のキャンプイン直前、山下律夫山村善則との交換トレードで片平晋作とともに西武ライオンズに移籍した。通算222安打と打撃は非力だったが、インサイドワークとキャッチングは優れており、1982年・1983年の西武2年連続日本一に貢献している。1985年森昌彦に替わる一軍バッテリーコーチに選手兼任で就任。同年は選手としての一軍公式戦出場がなく、同年限りで現役引退。
引退後は、指導者やフロント業務などで活躍している。引き続き西武で一軍バッテリーコーチ(1986年-1987年)、一軍作戦バッテリーコーチ(1988年-1989年)を務めた。1990年からは2年間、古巣・南海の後身で、法大および西武時代の同僚だった田淵幸一が監督を務める福岡ダイエーホークスのヘッドコーチに就任。監督の田淵と仲違いし〔星野仙一著、夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P122〕、1991年に退団。1992年からラジオ大阪野球解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた後、1999年から2000年に、野村克也が監督を務める阪神タイガース一軍バッテリーコーチを務め、2001年よりフロント入り。その後は編成部長に就任し、鳥谷敬を初めとする即戦力選手の獲得、入団に尽力している。
その後は阪神のシニアアドバイザーを務めるも、阪神が2012年シーズンに大きく低迷したことを受けてチーム立て直しの為にヘッドコーチに就任し、再び現場に戻ることになった〔阪神、黒田ヘッドコーチが就任 打撃コーチに水谷氏 産経新聞 2012年10月12日閲覧〕。
2013年シーズンからヘッドコーチを務めた。2014年11月1日に球団に辞意を申し入れ、退団した〔コーチの退団について 阪神球団公式サイト2014年11月1日配信〕。
2015年からはTigers-ai解説者・サンケイスポーツ評論家。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「黒田正宏」の詳細全文を読む




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