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根本陸夫 : ミニ英和和英辞書
根本陸夫[ねもと りくお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こん, ね]
 【名詞】 1. root 
根本 : [ねもと]
 【名詞】 1. root 2. source 3. origin 4. foundation 5. base 6. principle
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [りく, ろく]
 (adj-na,n) six (used in legal documents)
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

根本陸夫 : ウィキペディア日本語版
根本陸夫[ねもと りくお]

根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県水戸市生まれ、那珂郡東海村出身〔浜田昭八・田坂貢二『球界地図を変えた男・根本陸夫』日本経済新聞社、2001年、15p〕のプロ野球選手捕手)・監督・経営者(実業家)、野球解説者
西武ライオンズ編成・管理部長、元福岡ダイエーホークス代表取締役専務、代表取締役社長。
ニックネームは「球界の寝業師」。ドラフト会議トレードで辣腕を振るい、その仕事ぶりは「根本マジック」(後述)と呼ばれた。肩書きこそ違ったが、事実上のゼネラルマネージャーとしてその敏腕ぶりを発揮した。本人は「私はつなぎ監督なので」と話していた通り、監督としては目立った成績を残せず、在任期間も短かったものの、広島・西武・ダイエーの初優勝の土台を築き上げた。
横浜大洋ホエールズヤクルトスワローズの監督を歴任した関根潤三とは日大三中時代からの親友で、選手・コーチ(途中スカウト)を通じて近鉄パールス→近鉄バファロー→近鉄バファローズに在籍した。なお、大正生まれとしては最後のプロ野球監督経験者である(同年の12月25日から年号が昭和に変わったため)。
== 人物・経歴 ==
茨城県水戸市の資産家に生まれ、石神村に育つ。父親の時之助は水戸市で商売を営んでいたが、根本が生まれてからは祖父の事業を継承するために石神村に転居。石神村の村長となり、隣接する村松村と合併しても村長を二期務め、在任中に日本原子力研究所の誘致を決めた。根本は祖父から「いずれ根本家を支える人物」として目をかけられ正教幼児洗礼を受けた。さらに祖父は学問好きだったので根本にも勉強家になることを期待し、石神村内の小学校から将来を考え、水戸市内の三の丸小学校に転校させ若い弁護士を家庭教師としてあてがうが、それが根本と野球を結びつけることとなる。この弁護士が大変な野球好きで、二人で城跡でキャッチボールをしたり、中等野球や東京六大学野球の話をよく根本に聞かせた。また、帰宅後根本は当時地方では珍しかったコンクリート二階建ての実家の壁にボールをぶつけて一人でも楽しんだ。このことにより病弱だった根本が頑健な青年となった。
地元の旧制茨城中学校に進学するも、放校処分となり、旧制日本大学第三中学校に移って恩師・藤田省三監督に出会い、関根とともに指導を受けた。終戦後、日本大学予科で野球を再開し、田宮謙次郎とバッテリーを組み、さらに東都大学リーグで首位打者を獲得。この時、一時立教大学にも「入っていた」ことが発覚し出場停止処分が下された。この「入っていた」というのが立教に入学してプレーしたのか、単に野球部のセレクションを受けた程度だったのか真相は不明。この出場停止処分中に母校の日大三中の監督を務めた。その後、法大監督に就任していた藤田に引き取られて法政大学へと進み(この大学間移籍に関しても終戦直後なのでルール上出来たのか、藤田の親心によってリーグが許可したのかは不明)、関根とまたバッテリーを組むこととなった。この時期、硬派学生として暴れまわり、安藤昇と知り合う。
その後日本コロムビアの実業団チーム「川崎コロムビア」を経て、1952年近鉄に入団。
関根潤三を筆頭に、投手を気分良く投げさせる捕手として評判だった〔【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男 〕。また、抜群の記憶力は投手陣にも首脳陣にも頼りにされ、一軍出場のなかった1955~56年は、プロ野球経験のない芥田武夫監督をサポート、主に根本が投手のローテーションを決めていたという〔。
1957年に31歳で現役を引退したあとも、スカウト、二軍マネージャーとして球団に残った〔。また、現役時代に小玉明利が入団テストを受けた際、根本は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したがところが芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには・・・」と躊躇した〔ベースボールマガジン、2012年7月号、P66〕。だが根本は「3年まで待つと他球団に取られる。」として強引に口説いた〔。スカウトとして徳久利明土井正博を担当した〔。スカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄コーチ。別当薫監督とともに「18歳の4番打者」・土井正博を育て上げた。土井は「別当さんと根本さん、僕はふたりに育ててもらったんですよ。」、「自分がスカウトして入団してきた選手が迷わないように道をつけてくれました。大学や社会人出身の選手は、ある程度、プロとはどういう世界かわかりますけど、高校から入ってきた選手は右も左もわからないでしょ。そこで迷わないようにしてくれたのが根本さん」と述べている〔【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男、根本は「18歳の4番打者」として土井を売り込んだ 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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