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鶯亭金升 : ミニ英和和英辞書
鶯亭金升[おうてい きんしょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うぐいす]
 【名詞】 1. (Japanese) nightingale 2. bush warbler
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [ます, しょう]
 【名詞】 1. (1) measure 2. unit of volume ( 1. 8l) 3. (2) square container, e.g., a box 4. (3) square on a grid 5. cell of a grid 

鶯亭金升 : ウィキペディア日本語版
鶯亭金升[おうてい きんしょう]
鶯亭 金升(おうてい きんしょう、慶応4年2月23日1868年3月16日)- 昭和29年(1954年10月31日)は、雑誌記者・新聞記者・遊芸的文芸作者。本名は長井総太郎。筆名に竹葉亭昌安・竹葉亭金升・鶯亭化七・台山辺人などがあった〔『漫画雑誌博物館 明治時代編 団団珍聞1』(1986)の巻末の『年表』〕。
== 生涯 ==
下総国八木谷村(現・千葉県船橋市八木が谷)に生まれ、総太郎正安と名付けられた。父は長井筑前守昌言(まさのぶ)、母は可年。長井家は八木が谷ほかを治める家柄で、入り婿の昌言は千五百石の旗本。開港後の長崎奉行などを務め、維新後工務省の官吏に転じて、1873年に没した。
服部波山(画家、1827 - 1894)の私塾で書・画・漢学を学び、塾仲間と青春を楽しみ、その付き合いから団団社の団団珍聞(まるまるちんぶん)を知って投書を始めた。同誌の主筆梅亭金鵞に師事して鶯亭金升の号を貰い、同門の小山内薫や後の二代目市川左団次らと、師を囲んで都々逸(情歌)を作った。母可年と住む根岸は鶯の名所、それ故の『鶯亭』である。都々逸に限らず、落語川柳狂歌・戲文・茶番・小唄など庶民の遊びの文芸を好んで作った。長唄清元常磐津も作った。母にも俳諧の心得があった。
梅亭の勧めで1884年団団社の記者となり、1886年から珍聞誌の投書の選に当たり、1888年『お笑い草両面鏡』を連載し、途中から『当世道楽相』と改題した。挿画は小林清親が描いた。
金升と仁科縫との結婚の媒酌は小林清親夫妻が務めた。縫女の甥に十代目岩井半四郎がいる。
1890年(明治23年)秋から1年余神田松永町に住んだ時期には、喜多村緑郎ら八人が毎晩集まって、雑俳作りに夜を深した。
1892年(明治25年)(24歳)から、改進新聞の記者を兼務した。(団団社の野村文夫社長が改進党に属していた。)1895年、改進新聞が改名した開花新聞を退き、翌年万朝報社、1898年中央新聞社、更にやまと新聞読売新聞都新聞と転々して後、昭和初期から太平洋戦争中まで、長く『東京毎日新聞』に勤めた。
敗戦後の1947年、『落語珍日本』を出し、その後も都々逸・狂句・雑俳の選者を続けた。
老いに逆らいながら、1953年(昭和28年)秋『明治のおもかげ』を出版し、直後に風邪を引いて全快せず、翌年秋に没した。享年86。『情歌院鶯亭日経居士』。墓は本立寺(品川区東五反田にある。
1889年に始まる肉筆の日記『むだ雅記』は、早稲田大学演劇博物館に寄贈されたと言う〔『明治のおもかげ』、岩波文庫(2000)、p.290〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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