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高屋城の戦い : ミニ英和和英辞書
高屋城の戦い[たかやじょうのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

高屋城の戦い : ウィキペディア日本語版
高屋城の戦い[たかやじょうのたたかい]

高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)は、天正3年(1575年4月8日から21日まで河内高屋城新堀城石山本願寺一帯で行われた戦い。石山合戦の一部で、別名「第二次石山合戦」や、もう一つの主戦場でもあった新堀城を併せて「高屋・新堀城の戦い」と呼ばれることもある。
== 開戦までの経緯 ==

高屋城は元々河内畠山氏の城だったが、畠山氏が内紛により弱体化すると、細川氏三好氏の介入を受けるようになった。当主畠山高政はこれに抵抗したが、永禄3年(1560年)に三好長慶に河内を乗っ取られ高屋城から追放された。永禄11年(1568年)、同じく河内を追われていた高政の家臣安見宗房は、15代将軍足利義昭と義昭を擁立する織田信長の上洛に協力し、高屋城への復帰を果たした。ただし河内は三好義継(長慶の甥)と南北で折半だった。
やがて義昭と信長が対立し、義昭は各勢力に信長討伐を呼びかけた(信長包囲網)。三好義継は三好三人衆大和松永久秀と再度結んで信長から離反して義昭側に味方し、畠山家中は織田派と足利・三好派とに分裂した。当主・畠山昭高は信長の妹婿であり、織田氏との協調を模索していたが、天正元年(1573年)6月、昭高は三好派の守護代遊佐信教暗殺されてしまった。安見宗房もこの頃に死去し、昭高の兄の高政も信教に追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。
しかし包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には一乗谷城の戦い朝倉義景が自害、9月には小谷城の戦い浅井長政が敗死。11月には三好義継も信長の攻勢を受け自害し(若江城の戦い)、11月には石山本願寺が信長に名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈して講和。12月にはに逃亡していた義昭がさらに紀伊興国寺へ逃げ、12月26日には松永久秀も降伏して多聞山城堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。

天正2年(1574年2月20日、義昭は興国寺から武田勝頼上杉謙信北条氏政らに対し、徳川家康顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。
〔2月27日、信長は多聞山城に入城し正倉院蘭奢待を切り取りを焚いた。『信長の天下布武への道』によると「それを聞いた義昭が憤慨して、決起を促したのかもしれない」と解説しており、同年4月2日、越前一向一揆長島一向一揆とも雲行きが怪しく、信長との講和を破棄し出軍する。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高屋城の戦い」の詳細全文を読む




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