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陽原王 : ミニ英和和英辞書
陽原王[ようげんおう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう]
  1. (adj-na,n-adv,n) way 2. manner 3. kind 4. sort 5. appearance 6. like 7. such as 8. so as to 9. in order to 10. so that 1 1. yang 1
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

陽原王 : ウィキペディア日本語版
陽原王[ようげんおう]

陽原王(ようげんおう、生年不詳 - 559年)は、高句麗の第24代の王(在位:545年 - 559年)。姓は高、は平成。陽崗上好王(『三国史記』高句麗本紀・陽原王紀の分注)、陽崗王(『三国遺事』王暦)ともいう。先代の安原王の長子であり、『魏書』には「成」の名で現れる。533年に太子に立てられ、545年3月に先王が亡くなると王位に就いた。
日本書紀欽明天皇六年(545年)、同七年(546年)条には、『百済本記』を引いて陽原王の即位には高句麗内部に内紛があったとする。香丘上王(ぬたのすおりこけ、安原王)には正夫人に子が無く、中夫人(第二夫人)の子を8歳で擁立して王(陽原王)とした。しかし小夫人(第三夫人)にも子があり、安原王が病に瀕すると、中夫人の実家の麁群と小夫人の実家の細群とが王位を争い、麁群が勝って、細群二千余人を皆殺しにしたという。ただし、『三国史記』の立太子記事(533年)と『百済本紀』8歳での即位(545年)とは相容れないところがある。
==治世==
従来の南北朝両面への通好の方針は取りやめられ、北朝の東魏北斉のみへの朝貢を続け、南朝との交流は廃絶した。北斉からは550年に<使持節・侍中・驃騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡開国公・高句麗王>に冊封されている。
半島内三国の間では戦乱が多くあったが、新羅に領土を奪われる結果となることが多かった。548年にはの兵を用いて百済の独山城〔独山城の比定地については忠清北道忠州市とする説、忠清南道礼山郡とする説、ソウル特別市の北方の山岳地とする説がある。〕を攻めるが、新羅の朱珍が救援に来たために退却した。550年には百済に道薩城(忠清北道槐山郡)を陥落させられ、逆に百済の金峴城(忠清北道鎮川郡)を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われてしまった。551年には突厥が侵入してきて新城(遼寧省撫順市)、次いで白巌城(遼寧省遼陽市)を攻撃され、防戦して突厥を追い払ったものの、その間に新羅に十城を奪われた。かつての高句麗の外征の勢いは失われ、代わって新羅が勢力を増してきた。陽原王は新羅に対抗するために都城を強固なものにしようとして、552年に長安城(平壌市)の造成を開始した。同年、百済の熊川城(忠清南道公州市〔熊川城については京畿道安城市に比定する説もある。〕)を攻撃したが勝てなかった。さらに557年10月にはかつての首都の丸都城吉林省集安市)で、城主の朱理が反乱を起こしている。乱は鎮圧されて朱理は誅殺されたが、高句麗の国力が衰え、王権が動揺しているさまを否めなくなってきた。
在位15年にして559年3月に死去し、陽原王とされた。埋葬地については記述がない

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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