翻訳と辞書
Words near each other
・ 重陽堂薬品
・ 重陽子
・ 重陽子線
・ 重陽節会
・ 重雷装艦
・ 重電機
・ 重非水液
・ 重音テッド
・ 重音テト
・ 重音奏法
重須本門寺
・ 重馬場
・ 重馬敬
・ 重騎兵
・ 重騎士
・ 重高小八
・ 野
・ 野 (曖昧さ回避)
・ 野、区、領域
・ 野々すみ花


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

重須本門寺 : ミニ英和和英辞書
重須本門寺[おも]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [もん]
  1. (n,n-suf) (1) gate 2. (2) counter for cannons 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 

重須本門寺 ( リダイレクト:北山本門寺 ) : ウィキペディア日本語版
北山本門寺[きたやまほんもんじ]

北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の寺院で、同宗の七大本山の1つ。日興の法脈を継承した富士門流に属し、静岡県駿東地方に分布する 西山本門寺大石寺下条妙蓮寺小泉久遠寺とともに同門流の「富士五山」を構成する。また、さらに 京都要法寺伊豆実成寺保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。正式呼称は法華本門寺根源。山号は富士山。他の通称に重須本門寺がある。
== 歴史 ==
日興は1293年永仁元年)に石川能忠の寄進をうけて北山に重須談所を設けると、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成した。大石寺は弟子の日目に譲ったが、日目が南条時光の血縁関係であったことも理由のひとつとされている。同様に石川一族は、日興の血縁関係者であった。日興は晩年の36年間を重須談所で過ごした。
日興の後は第2代として日代が継いだが、日代は教義上の対立から地元大衆に寺を追い出され、西山本門寺を建立して初代住職となった。
*1298年永仁6年)2月15日、日興、重須に御影堂を建立して移る。日興本弟子6人を定む。
*1302年乾元1年)3月8日、日頂、下総真間弘法寺を日揚に付し、重須に来たり日興に帰依す。12月28日、日興、寂仙房日澄を重須談所の学頭に補す。
*1317年文保元年)3月8日、日頂、重須に寂(66歳)。三位日順重須談所2代学頭に補せらる。
*1318年(文保2年)1月8日、三位日順、重須談所に法華本門見聞の講を開く。11月24日、日興、重須談所に問答講〔論義〕を始め三位日順表白文を書す。
*1325年正中2年)11月13日、石川妙源、重須御影堂寄進の置状を日興に奉る。
*1328年嘉暦3年)9月15日、重須開基檀那石川孫三郎源能忠〔法号妙玄日真〕卒。
*1333年元弘3年)2月7日、二祖日興重須に入滅〔88歳〕。伊予公日代、重須に石経を埋む。
*1334年建武1年)1月7日、上蓮房日仙、伊予公日代、上蓮〔百貫〕坊において問答す〔仙代問答〕。伊予公日代重須を出で大石寺藤木坊に仮寓す。
*1339年延元4年)10月25日、重須日妙、天奏す。12月4日、重須日妙、書を京の太夫阿日尊に報ず。
*1344年興国5年)、石川実忠、再び重須の坊地寄進を証す。
*1347年正平2年)10月13日、式部日妙等、重須の寺を修理す。
*1355年(正平10年)1月3日、三位日順、重須談所に開目抄の講義を始む。
*1356年(正平11年)3月5日、三位日順、重須談所にて観心本尊抄の講義を始む。
*1417年(応永24年)10月13日、今川範政、重須寺に判物を下す。
*1482年文明14年)9月7日、大石寺と重須・保田・小泉衆徒諍論。
*1494年明応3年)9月13日、重須日浄、本尊聖教等を日国に譲る。
*1495年(明応4年)10月22日、重須学頭日経、一位阿日朝に学頭寂仙坊々跡を譲る。
*1515年永正12年)6月26日、今川氏親、重須本門寺の寺号証文等を安堵す。
*1521年大永元年)6月4日、重須僧日誉、日向細島妙谷寺において富士一跡門徒存知事を書写す。
*1522年(大永2年)3月19日、今川氏親、重須本門寺々領を安堵し諸役等を免ず。
*1530年享禄3年)1月29日、今川氏輝、重須本門寺を守護不入及び諸役免除とす。冬、広蔵院日辰、重須の日興墓所に詣ず。
*1536年天文5年)9月6日、今川義元、重須本門寺の臨時諸役を免除し地頭代官の入るを停む。10月9日、重須7代、日国寂。
*1538年(天文7年)8月6日、北条氏綱、重須本門寺の寺領を安堵す。
*1543年(天文12年)9月12日、今川義元、安堵状を重須本門寺に与う。
*1544年(天文13年)11月20日、今川義元、下知状を重須本門寺に与う。
*1556年弘治2年)7月7日、京要法寺日辰、重須に霊宝を拝し、二箇相承を日耀に写さしむ。
*1557年(弘治3年)11月16実、今川氏真、重須本門寺の寺領を安堵す。
*1562年永禄5年)4月10日、重須日出、重須西山通用之事1札を書す。
*1565年(永禄8年)、兵部阿日義〔日殿〕、保田日我に無断にて重須に住し師の破門を受く。
*1569年(永禄12年)2月4日、重須、諸堂武田信玄の兵火に罹り御影を沼津在静浦本能寺に移す。
*1570年元亀元年)8月13日、今川氏真、重須本門寺の寺領を安堵し諸役を停止。
*1574年天正2年)9月12日、武田勝頼、大石寺及び重須本門寺の寺規を定め両寺の修造興隆に努めしむ。
*1578年天正6年)、重須本堂再建成る。
*1579年(天正7年)、重須本門寺本堂・御影堂再建。
*1581年(天正9年)、大聖人300遠忌。3月17日、重須本門寺、二箇相承等の重宝を西山衆徒並びに武田勝頼の臣増山権右衛門等のために奪わる。3月28日、重須日殿、重宝返還の訴状を武田勝頼に致す。10月13日、武田勝頼、西山・重須の諍論を裁定す。
*1582年(天正10年)、日興・日目250遠忌。2月6日、重須日殿、武田方に宝物返還の訴願入れられず断食憤死す〔57歳〕。2月、重須再住日出、徳川家康甲州攻めの砌聖教曼荼羅を贈る、家康凱旋の時之を返納す。11月、徳川家康、重須日出の請により井出甚之助に命じ重須本門寺に用水堀を作らしむ。12月2日、本多弥八郎、徳川家康の命により西山本門寺より宝物64点を重須本門寺へ返さしむ。
*1583年(天正11年)2月26日、甲斐平岡岡右衛門、徳川家康の命により西山本門寺の宝物を重須本門寺に返還す。
*1590年(天正18年)12月28日、豊臣秀吉、重須本門寺に寺領50石の地を寄せ諸役を免ず。
*1611年慶長16年)12月15日、重須養運坊、本門寺棟札・二箇相承を徳川家康の台覧に供す。
*1612年(慶長17年)春、讃岐大仁公日円、重須本門寺に至る〔重須讃岐本末係争の発端〕。
*1641年(寛永18年)6月28日、徳川家光、重須本門寺へ先規の如く50石の朱印状を与う。
*1647年正保4年)2月3日、重須日優、江戸寺社奉行に讃岐本門寺を訴う。9月、重須本門寺垂迹堂再建。
*1648年慶安元年)12月11日、讃岐本門寺敗訴し、重須本門寺末となり、法華寺と称せしめらる。
*1665年寛文5年)7月11日、徳川家綱、重須本門寺へ朱印状を下す。
*1666年(寛文6年)11月11日、重須本門寺客殿より出火塔中9坊焼失。
*1667年(寛文7年)2月26日、重須本門寺客殿より出火塔中2坊焼失。
*1668年(寛文8年)4月11日、重須行泉坊焼失。11月20日、重須本性坊焼失。
*1670年(寛文10年)9月12日、重須本門寺客殿・庫裡・垂迹堂等焼失。
*1672年(寛文12年)12月16日、重須本門寺累年の火災により住持日優退寺す。
*1673年延宝1年)10月13日、重須本門寺梵鐘改鋳、鐘楼・二天門・表門造営。
*1675年(延宝3年)1月30日、重須書院より出火5ケ坊・山門等焼失、前後11回何れも放火による。重須放火犯学頭日然逃走。
*1695年元禄8年)5月、重須塔中8ケ坊・黒門・三門等焼失。
*1697年(元禄10年)2月15日、重須本門寺本堂再建。
*1703年(元禄16年)10月18日、重須本門寺御影堂再建。
*1725年享保10年)7月11日、重須本門寺客殿再建。
*1727年(享保12年)重須日専、富士天母山に宝塔を建つ。
*1735年(享保20年)10月8日、重須本門寺宝蔵再建。
*1740年元文5年)9月、重須本門寺五重塔建立。
*1796年寛政8年)10月19日、重須本門寺学頭寮を焼く。
*1808年文化5年)2月20日、重須本門寺学頭寮焼失。
*1812年(文化9年)3月、重須本門寺学頭寮焼失。
*1827年文政10年)11月6日、重須本門寺諸堂焼失。
*1837年天保8年)2月17日、重須本門寺庫裡焼失。
*1840年(天保11年)2月17日、重須本門寺本堂・庫裡・書院等焼失。
*1841年(天保12年)10月 重須本門寺梵鐘改鋳。
*1846年弘化3年)4月7日、重須本門寺庫裡再建。
*1863年文久3年)4月13日、重須本門寺本堂再建。
*1876年明治9年)、末寺36ヶ寺とともに、富士門流の統一教団日蓮宗興門派の結成に参加。
*1899年(明治32年)、日蓮宗興門派日蓮本門宗本門宗)と改称。
*1910年(明治43年)12月15日、失火により五重塔、本堂焼失。
*1931年(昭和6年)11月21日、本堂再建。
*1941年昭和16年)、本門宗一致派日蓮宗勝劣派顕本法華宗とともに三派合同を行い、日蓮宗を結成、北山本門寺とその末寺は以後日蓮宗に帰属して現在に至る。
*1986年(昭和61年)5月15日、仁王門建立(仁王像はヒノキの一木彫り)。
本門宗時代は、同宗の総本山、宗務院がおかれた。三派合同後の新日蓮宗では、同宗の七大本山の一つに列せられている。興統法縁の縁頭寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北山本門寺」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.