翻訳と辞書
Words near each other
・ 重鉄騎
・ 重鋸歯
・ 重鎖
・ 重鎮
・ 重長智子
・ 重陽
・ 重陽堂薬品
・ 重陽子
・ 重陽子線
・ 重陽節会
重雷装艦
・ 重電機
・ 重非水液
・ 重音テッド
・ 重音テト
・ 重音奏法
・ 重須本門寺
・ 重馬場
・ 重馬敬
・ 重騎兵


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

重雷装艦 : ミニ英和和英辞書
重雷装艦[じゅうらいそうかん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important
: [かみなり]
 【名詞】 1. thunder 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

重雷装艦 : ウィキペディア日本語版
重雷装艦[じゅうらいそうかん]
重雷装艦(じゅうらいそうかん)とは太平洋戦争中の日本海軍で造られた艦艇である。なおこれらは新規に建造されたものでは無く既存の艦艇を改装したものであり、重雷装艦という名称も公式なものでは無く改装された艦艇の本来の呼称(この場合は二等巡洋艦=軽巡洋艦)がそのまま使用された。
== 概要 ==
太平洋戦争開戦前の日本海軍では、もしアメリカと戦争になった場合太平洋を渡って来るアメリカ艦隊を迎え撃つ為、まず潜水艦と航空機で敵戦力を漸減しその後日本近海において主力である戦艦部隊による艦隊決戦で決着を付けるというシナリオを立てていた。このシナリオ、つまり戦闘を優位に進める為1937年(昭和12年)に考え出されたのがこの重雷装艦である。
作戦としては遠距離隠密魚雷戦という戦法を取る。これは遠距離から魚雷を発射、多数の敵艦艇を沈めた上艦隊そのものを混乱に陥れ、主力の戦艦部隊で敵艦隊を撃滅するというものである。
この艦及び作戦が開発されるきっかけとなったのが酸素魚雷の発明・実用化によるものである。この酸素魚雷は従来の魚雷とは違い20km~30kmという長距離攻撃が可能であり、かつ雷跡が無いという画期的なものであった為にこの艦と作戦が立案された。
この艦への改装に抜擢されたのが、球磨型軽巡洋艦である北上大井木曾(実際に改装されたのは「北上」と「大井」のみ)の3隻であった。この3隻が抜擢された理由としては、1.軽巡洋艦としての利便性、2.立案当時でもかなり長い艦歴であった当艦の有効な活用方法、3.早急な改装工事を行う為などが挙げられる。
そして1941年(昭和16年)に入って「北上、大井」の2隻の改装工事が始まり、主砲や副砲の撤去の他艦橋の拡大等々船体自体も大規模な工事が施され、片側だけでも61cmの4連装魚雷発射管が5基20門、両方合わせて10基40門も搭載された(詳しくは下記の艦名の項目参照)
これだけの魚雷攻撃が出来る艦は未だかつて無かったが、直後の太平洋戦争では戦艦や艦隊決戦ではなく空母及び航空機が新たに戦争の主役となり、重雷装艦の活躍する場はもはや無く存在意義は無くなったも同然であった。1942年(昭和17年)1月2日、「大井、北上」は工事を終えて呉に入港〔#戦藻録(1968)61頁〕。12日に「大井」(第九戦隊旗艦)を視察した宇垣纏連合艦隊参謀長は『参謀連は只後衛の不足を補はんとす。一理なきに非ざるも、餘は本艦の特質發揮即ち魚雷力の利用価値發揮を主眼として在り、森下同艦長の意見も略同様なり。更に戦隊を分割し、個艦的に異射點射法を畫するも研究すべきなり。』と本型の使用方法について模索している〔#戦藻録(1968)67頁〕。
改装直後の「大井、北上」の初任務は、陸軍第二師団の台湾輸送任務護衛だった〔#戦藻録(1968)68頁〕。その後も2隻は高速輸送艦としての任務に従事。1944年(昭和19年)には「大井」が戦没するも、「北上」は本土決戦を前提とした水上艦部隊である海上挺進部隊に編入された。同部隊の中で最大であった「北上」は通常1~2基搭載する人間魚雷回天を8基も搭載する回天搭載母艦となった。
終戦直前の呉軍港空襲で大破し航行不能となるも、戦後は工作艦として復員支援を行った後に解体された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「重雷装艦」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.