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逆鉾伸重 : ミニ英和和英辞書
逆鉾伸重[さかほこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぎゃく]
  1. (adj-na,n) reverse 2. opposite 
: [ほこ]
 【名詞】 1. halberd 2. arms
: [のし]
 【名詞】 1. an iron 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

逆鉾伸重 ( リダイレクト:逆鉾昭廣 ) : ウィキペディア日本語版
逆鉾昭廣[さかほこ あきひろ]

逆鉾 昭廣(さかほこ あきひろ、1961年6月18日 - )は鹿児島県姶良市(旧加治木町)出身で井筒部屋所属の元大相撲力士。なお、実際の出身地は東京都墨田区である。本名は、福薗 好昭(ふくぞの よしあき)。
最高位は東関脇。得意技は左四つ、寄り、もろ差し、外掛け。現役時代の体格は182cm、130kg。現在は年寄井筒を襲名し、井筒部屋で後進の指導に当たっている。好物はおでん。
== 来歴 ==
1978年1月場所に福薗の名で初土俵を踏む。1981年7月場所に、兄の鶴嶺山と同時に新十両となる。1981年11月場所は2勝13敗と大きく負け越し、幕下に陥落したが、1982年5月場所に再十両、このとき井筒部屋伝統の四股名、逆鉾に改名した。同年11月場所に入幕。現役時代は父(鶴ヶ嶺)譲りの「相撲巧者」と言われ、立合いから相手のもろ差しに潜り込むのが速く、そこからのがぶり寄りを得意とし、技能賞、三役の常連であった。ちなみに本来は左四つだが、もろ差しに移行する際は右四つから巻き変えるのが特徴。このため、右四つが得意な力士とは相性がよかったが、左四つが得意な力士とは安易に左四つになり相手十分の相撲となってしまうことも多かった。
1984年7月場所に小結を飛び越して関脇昇進を果たし、次期の大関候補と呼ばれた事もあった。しかし出世欲が乏しく、また部屋頭だったことからか、立合いで胸を出し、顎を上げる悪癖が治らず、三役の地位では勝ち越しても8・9勝に終わり、2桁勝利(10勝以上)を挙げる事は一度も出来なかった。反面、話題には事欠かず隆の里に勝って土俵上でガッツポーズを取って問題にされたり、弟の寺尾が取り組みに負けた際、思わず控えで立ち上がってしまうなどして話題になった。昭和60年代には寺尾ともに同時関脇、同時三賞受賞もしばしばあった。立合い正常化講習が行われた直後の場所である1984年9月場所では、その場所3日目の北天佑戦で勝った際の取組で一度際どい立合いを「手つき不十分」と指摘した九重を睨みつけたことやインタビュールームで憮然としながら 「アッタマにきたからね、もう」と口にした態度を取るなどの行動を見せて物議を醸した〔NHK大相撲中継 1984年9月場所3日目〕。
若花田貴花田が台頭してきた平成初期には力衰えて体も一回り小さくなっており、得意のもろ差しになってもそのまま後退して負けるといった取組が増え、低迷した。加えてマスコミでも散々に書き立てられ悪役の役回りを割り振られたがそれでも人気は高く、十両に陥落し1992年9月場所で引退するまで人気力士として活躍した。横綱千代の富士と屋台で遭遇してから、千代の富士に心酔し、以後両者はしばしば熱戦を展開した。現役時代は板井とも仲が良く、幕下に陥落してから再十両を果たすまでの間に師匠の大鳴戸と不仲に陥った板井は普段のちゃんこも井筒部屋で逆鉾と共に食べる間柄になったという。
朝青龍(第68代横綱)が左手で手刀を切ることを、内館牧子横綱審議委員が問題視したが、逆鉾も朝青龍と同じく左利きでずっと左手で手刀を切っていた。だが当時はこれを問題視するものは誰もいなかった〔大相撲情報局 コラム「発気用意丼」 力士の所作 〕。
現役引退後は年寄春日山を襲名して井筒部屋付きとなり、師匠の停年(定年)退職後は井筒に名跡変更して部屋を継承した。継承直後の1994年5月、既に結婚していたことと当時7歳だった長女・清香(後の天咲千華)の存在を明らかにして周囲を驚かせた。〔鶴竜デキ婚は技能賞部屋の伝統なんです nikkansports.com 2015年1月7日9時10分 紙面から〕現在は力士5人の小所帯ながら、直弟子である鶴竜横綱まで育て上げるなど手腕を発揮している。また、相撲協会では、役員就任前は、役員でない親方衆で構成される年寄会の会長を務め、2014年には役員選挙に立候補して副理事に就任した。2002年勝負審判に就任して以降は12年間の長きに亘ってその任務を果たし、2014年の副理事就任後も審判部に残留して副部長へと昇進した。2016年の役員候補選挙に立候補するも、落選する〔八角理事長ら10人が当選 日本相撲協会、高島親方落選 〕。その後行われた新たな職務分掌では、監察委員となった。
2014年末には鶴竜がモンゴル人女性との婚約を発表したことを受けて会見を行い、婚約者が2015年5月に第1子を出産予定であることに絡めて「鶴竜にはですね、昔から順番を間違えるなと言ってたんですが、うちの部屋は技能賞の部屋で、そういう伝統〔弟の錣山(寺尾)も、1995年の結婚発表時は夫人の妊娠後だった。さらに同部屋の元大関だった陸奥霧島)も1986年6月の挙式後すぐに長女が生まれていた。〕がある。そういうことで、しょうがないかと。皆さんに、ご心配をおかけしてますが、許してもらいたい」とコメントしていた。〔鶴竜デキ婚は技能賞部屋の伝統なんです nikkansports.com 2015年1月7日9時10分 紙面から〕しかしこの会見などの準備に追われた影響で体調を崩し、直後の2015年1月場所は目の不調によって全休(心労という説もあった)。〔鶴竜婚約で心労か 井筒親方休場、審判部代役は二所ノ関親方 Sponichi Annex 2015年1月11日 05:30 〕同月29日の理事会より職務に復帰し、2月8日の大相撲トーナメントから審判長として土俵下に座る意向を示した。〔井筒副部長が審判長復帰へ 目の不調で初場所全休 Sponichi Annex 2015年1月29日 20:14 〕
2016年3月場所では、8日目に結びの一番で審判長の職務をしていたところ白鵬に寄り切られて(だめ押しとの見方もある)土俵から転落した嘉風の下敷きとなり、左足を骨折して入院する災難に遭った。
土俵下の勝負審判を務める親方はNHKの大相撲中継では原則として解説を務めないが、審判部所属になる前に解説を務めた際には、自分より年上の力士を語る際は「○○関」と呼称していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「逆鉾昭廣」の詳細全文を読む




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