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板井圭介 : ミニ英和和英辞書
板井圭介[いたい けいすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ばん, いた]
 【名詞】 1. board 2. plank 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [かい]
  1. (n,vs) shell 2. shellfish 3. being in between 4. mediation 5. concerning oneself with

板井圭介 : ウィキペディア日本語版
板井圭介[いたい けいすけ]
板井 圭介(いたい けいすけ、本名は四股名と同じ、1956年3月21日- )は、大分県臼杵市出身で、かつて大鳴戸部屋(現存せず)に所属していた元大相撲力士。最高位は西小結1989年5月場所)。現役時代の体格は178cm、139kg。得意技は突き、押し、叩き。
== 来歴・人物 ==
小学生の頃から中学校卒業までは、野球をやっていた(主に右翼手だったという)。しかし、当時実業団相撲で活躍していた兄・義美を追って、大分県立大分水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)に入学してから本格的に相撲を始めた。
同高等学校の相撲部ではそこそこの実績を残し、卒業時には宮城野親方(元横綱・吉葉山)からのスカウトを受けた(日本大学駒澤大学などからの勧誘もあった)〔自身が志望する進路は、東京農業大学であったという。:『戦後新入幕力士物語』(ベースボール・マガジン社)第4巻「板井圭介」〕。しかし「まだプロ入りする自信がない」などの理由でこれを断り、高校卒業後、直ちに黒崎窯業(現・黒崎播磨)に就職。同社の相撲部では国体青年の部で優勝するなど活躍し、退職後の1978年、大鳴戸部屋(師匠は元関脇高鐵山)に入門した。実業団時代には闘鶏に凝っており、競技用の鶏まで飼っていたという。
同年9月場所で初土俵を踏んだが幕下付出の申請をせず、前相撲から取った。実業団相撲で4年以上養った実力は伊達ではなく、序ノ口から三段目まで3場所連続優勝し、26連勝(当時本割形式で行われていた前相撲を含むと29連勝)という当時のデビューからの最多連勝記録を打ち立てた(2012年1月場所で、常幸龍貴之が更新。ちなみに連勝は、元小結・大錦が止めた)。
翌年9月、序ノ口から僅か5場所で十両にスピード昇進(戦後では土佐豊、常幸龍と並ぶ1位タイ)。十両昇進を機に、四股名を「板井」から師匠の現役名と同じ「高鐵山(こうてつやま)」に改めた。
その後も順調に番付を上げ、1980年9月場所、初土俵から丸2年で新入幕を果たした。
しかし新入幕の場所では、足の関節を傷めた影響で全く振るわず、すぐに十両へと陥落。翌年5月場所では再入幕したが、この時も左膝の怪我により不本意な成績に終わり、1場所で十両に下がった。
それから間もなく、四股名を元の「板井」に戻している。その後は一時、幕下にまで番付を落としていたこともあった。〔その時期には1度、幕下優勝を果たしている(1982年1月場所)。それ以前に十両で2度優勝しており、この優勝により幕内以外の全ての地位で優勝という快挙を達成したことになる。〕
1983年3月場所にて4度目の入幕を果たしてからは長く幕内の地位を守り、1989年3月場所では東前頭7枚目で11勝4敗と好成績を挙げて殊勲・技能両賞を受賞。ちょうど場所中に33歳の誕生日を迎えた板井は、潮錦(1959年5月場所)以来となる33歳以上の高齢での三賞初受賞を果たした。翌場所、自己最高位となる小結に昇進(同場所では3勝12敗と大きく負け越し三役経験はこの1場所のみで終わっている)。
前述の通り膝が悪く、巡業中でもほとんど稽古をしていなかった(ある巡業でぶつかり稽古をしていたところ、「倒れ方を知っているのか」と噂が立った)が、立ち合いのタイミングの取り方は天才的と評した親方もいた。
1991年7月場所では、東前頭14枚目の地位で15戦全敗を喫し十両へと陥落(幕内皆勤全敗は、これ以降、現在(2016年1月場所後)まで誰も記録していない)。途中休場した翌9月場所中、廃業を表明した〔自身の暴露本には「幕内・十両を往復する土俵生活を送る覚悟もあったが、年寄襲名の目処が立っていたため星を売りまくった。」という趣旨の記述がある。〕。初土俵・新十両・新入幕・廃業がすべて同じ9月場所でのことだったという、珍しい経歴を残している。
また同年5月場所では、2日目に「昭和の大横綱」と言われた千代の富士と対戦して敗れ、結果として彼の現役最後となる白星を提供している(翌3日目に貴闘力に敗れた後、引退を表明したため)。
当初は現役を引退し、年寄春日山を襲名することが確実だったが、日本相撲協会が年寄襲名の申請を却下したため廃業せざるを得ない事態となった。なぜ協会が年寄襲名を認めず廃業させたかについては、「土俵上のマナーが悪かったから」「廃業後、物議を醸した八百長相撲の主犯格として協会から目をつけられていたから」「 『15戦全敗』 という無様な成績を記録したから」といった憶測が流れたが、その真相は現在でも謎のままである。また、春日山は借株で襲名する形式で手続きしたため、所有者と揉めた可能性もある。その後、廃業力士としては異例の、国技館土俵上においての断髪式を行った。
廃業後は一時、東京都江戸川区内で相撲料理の店を経営した。2008年現在、ガラス工をしていると語っている。〔【大相撲八百長訴訟(2)】「講談社からお金は?」「一銭ももらってない」 MSN産経ニュース2008年10月3日配信、同年10月4日閲覧 〕
廃業の直因は一説に、「ここ数年巡業に参加していない力士がいる」と勧告されたことであるという。当時の中立親方(元横綱・栃ノ海)がある時巡業で「ちっとは稽古しろ」と促すと「いや、自宅のベランダで四股を踏んでますよ」と反駁するなど、膝の負傷があったとはいえ稽古態度は悪かったとされており、金城と並んで不良力士と評する向きもあった。〔高鐵山の著書には「ハワイ巡業で逆鉾と共に大麻を吸引していたと親方から聞いた」という記述もあり、実際に同著書で「板井という不良を生み出した責任を追及された」と板井の人物評が語られている。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「板井圭介」の詳細全文を読む




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