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解同 ( リダイレクト:部落解放同盟 ) : ウィキペディア日本語版
部落解放同盟[ぶらくかいほうどうめい]

部落解放同盟(ぶらくかいほうどうめい)は、部落差別の解消を目的に標榜している同和団体である。関係者みずからによる略称解放同盟。関係者の間では単に「同盟」と呼ばれることもある。解同と略されることもあり、この略称は裁判所でも使われており、特に日本共産党はカギカッコつきで「解同」と表記する。また、警察庁出身の佐々淳行部解と略している〔佐々淳行『菊の御紋章と火炎ビン』(文藝春秋社、2009年)p.269-278〕。裁判所によって部解同と略されたこともある〔『戦後部落問題関係判例: 資料編』(部落解放研究所、1995年)p.956。〕。
民主党の主な支持団体の一つであり、同党に組織内候補を輩出している。地域によっては自民党公明党社民党新社会党などを支持する場合もある。
規約では「部落民でない者についても、都府県連合会で審査決定し、中央本部の承認により同盟員とすることができる」と定めるが〔『部落解放年鑑』1988年、p.37。〕、過去には、部落外の協働者から「部落外の人間からの批判の拒否」を指摘されたこともある〔『同和はこわい考』の二十年を振り返って─自らを糾す思想の実践を 月刊『こぺる』編集人 藤田敬一 〕。
== 歴史 ==
1922年大正デモクラシーの空気の中で、全国水平社が結成された。戦前の運動は、1940年の大会で国歌斉唱・宮城遥拝英霊に対する黙祷で幕を下ろすまで続けられた。
戦後部落解放運動は、戦前の水平運動、融和運動双方の活動家の大同団結した部落解放全国委員会の結成によって始まった。同委員会は1955年、大衆的運動団体であることを明確にするために、部落解放同盟と改称するが、その一方、55年体制の対立構図が明確化する過程で融和運動系列の活動家を除名、60年代後半から70年代前半にかけては日本共産党活動家を除名。除名された者たちはそれぞれ別組織を結成した。その結果、自由民主党系の全国自由同和会日本共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)、そして1955年結成の部落解放同盟に分かれて推進されることになる。
部落解放同盟内部の日本共産党系の派閥は、内閣同和対策審議会答申(1965年10月8日)を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判。一方、部落解放同盟内部の日本社会党系の派閥は同答申を歓迎した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという〔佐々木隆爾『戦後政治支配と部落問題 「解同路線」はどう形成されたか』(部落問題研究所、1995年)〕。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、日本共産党と部落解放同盟は反目を続けている。
日本共産党との対立が爆発したのが、1974年に起きた八鹿高校事件である。もともと日本共産党系の部落問題研究会が設置されていた兵庫県立八鹿高等学校で、部落解放同盟系の生徒が部落解放研究会を結成しようとしたのを、日本共産党系の教師が非公認としたことから、部落解放同盟が組織的に解放研の生徒の支援に乗り出し、教師を糾弾するに及んだ。このとき、日本共産党支持の教員のみならず日本社会党支持の教員や支持政党のない教員も暴力の被害を受けている〔上原善広「誰も書かなかった「同和教育」 3タブー・八鹿高校事件」(「文藝春秋」2012年2月号)〕。当時は部落解放同盟の不祥事に関する報道がタブー視されていたことから、全国紙はこの事件を積極的に報道しようとしなかった。日本共産党はこれらの事件を国会で取り上げ、部落解放同盟を非難している。
部落解放運動の草創期から「言った・言わない」による暴力的な吊し上げが行われていた。その頂点が八鹿高校事件であった〔『部落』第42巻、第524~530号、1990年、p.34〕。また、糾弾の対象とした宗教団体・企業・マスコミなどを「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(同宗連)、「同和問題に取り組む全国企業連絡会」(同企連)、「出版・人権差別問題懇談会」「人権マスコミ懇話会」などの組織に糾合し、参加費を徴収し、部落解放同盟の研究集会や糾弾会に糾弾側として動員している〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.110〕。この間の事情について、部落解放同盟員は「将棋のコマや思ってくださったらええねん。将棋の場合は相手のコマを取ったらそれをまた今度は自分のコマで使うでしょう。そういうことなんですね。だからね、最近は企業の人、行政の人の発言の方が僕なんかよりも解放同盟寄りの発言だったりする。僕があべこべに『あんたはほんまに解放同盟ですか』と言うてやられるんだから(笑)」と説明する〔。
日本共産党は「部落問題は既に解決している」として全解連を解散し、人権一般を扱う団体に衣替えした。部落解放同盟も部落のみならず、障害者解放など社会的少数者全般の権利を擁護するとのスタンスに変わりつつあるが、部落問題を最終的に解決するのは行政の責任だとする立場は堅持している。
部落解放同盟は、かねてから日本社会党公明党民社党社会民主連合との関係を重視してきた。現在は、民主党との関係が深い〔部落解放同盟は「2004年民主党大躍進パーティー」にて献金をしている〕が、小森龍邦・部落解放同盟元書記長は、新社会党委員長を務めていた。ただし本来の部落解放同盟は多種多様なイデオロギーの持ち主が集まった大衆団体であり〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.105〕、「部落解放同盟という看板あげてるけども、外したらやってること言うてること自由同和会とそんなに変わらへん」〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.106〕との声も内部にはある。
公式方針としては反天皇制をスローガンに掲げており、1974年6月の部落解放同盟の「子ども会」では
#日本共産党
#橋本浙子(日本共産党員。矢田事件への見解が原因で勤務先の大阪市役所から研修名目による職場いじめを受け、法廷闘争をおこなった)
#昭和天皇
#機動隊
などを「6つの敵」と称し、この6つをかたどったロボットをつくり、これらを倒す競争をさせていた〔中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.81(部落問題研究所、1977年)〕。
しかし末端レベルには天皇崇拝者もおり、「家の中行ったら天皇陛下の写真と日の丸があって、それで支部長やってる」場合もあるという〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.108〕。たとえば部落解放同盟鹿児島県連合会初代委員長の村岡仁三次も自宅に天皇皇后両陛下の写真を飾っていた〔有馬学氏 - 近代日本史料研究会 〕。なお村岡は大日本翼賛壮年団出身であった〔。「南九州の被差別部落の解放運動の人にはときどきいるタイプなんです」と、有馬学は述べている〔。このほか「日本塾」の右翼が部落解放同盟に入り込んで幹部になった例も指摘されている〔中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.27〕。
1995年当時、部落解放同盟には
#旧社会党の「党員協」
#いわゆるソ連派の「日本のこえ」
#中国派の「中国研究会」
の3つの流れがあった〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.103〕。元々は「党員協」が主流で、松本治一郎上杉佐一郎もこの派閥に属する〔。しかし1995年までには「日本のこえ」が主流派閥となり、「日本のこえ」の上田卓三が書記長となる〔。これに伴い、「日本のこえ」と対立関係にある新社会党の小森龍邦は書記長を解任されるに至った〔。かつての岡山県連合会(「中国研究会」系)のように、同盟中央の方針に対立したために解体された例もあり、中核派系統の支部が同盟中央から機関解体されて部落解放同盟全国連合会(全国連)となった例もあり、部落解放同盟は一枚岩の組織ではない〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.102-104〕。また、同盟中央から解体されてからも自らの正統性を主張し、行政から補助金を受け続けている組織もある〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.104〕。
1999年4月30日、広島県教育委員会は、君が代の斉唱を推進する立場をとり、教員と対立した県立校長の自殺事件の背景に、解放同盟県連や日教組の「圧力」があったとする調査結果を発表した。
2002年に同和立法が期限切れを迎え、一部地方自治体において同和予算を見直す動きが出る。これに危機感を持った部落解放同盟は同和立法の代替法として人権擁護法案の成立を強く推進。メディアでは関係の深い朝日新聞社に強く働きかけを行っており、2005年の通常国会時は専務取締役の坂東愛彦や社会部の本田雅和などが同調し、紙面の論調に反映された。これに対して、共産党は赤旗などを通じて反対姿勢を鮮明にした。
部落問題研究所は部落解放同盟を憲兵特高刑事になぞらえている〔『部落』第45巻、第559~565号、1993年、p.75〕。全解連もまたと述べている。戦前の特高が内務省警保護局保安課編『特高月報』を通じて国民の不敬発言とされたものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録していたように、部落解放同盟もまた「部落解放基本法」の永久立法の必要性を世に訴えるために「部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会」名義で小冊子『全国のあいつぐ差別事件』を毎年刊行し、国民の部落差別発言とされるものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録している。
「日本のこえ」派で上田卓三のブレーンであり、部落解放同盟の「影の書記長」「影の委員長」「最大の権力者」ともいわれた〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.116〕大賀正行部落解放・人権研究所名誉理事、元部落解放同盟中央本部顧問)は、部落解放同盟を「人権同盟」と改称し、部落問題だけではなく人権問題全般を扱うNGOに改組し、行政の補助により運営していく構想を持っている、とも伝えられる〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.116-117〕。
最盛期には18万人いた部落解放同盟員は、同和対策関連法の失効(2002年)を経て、2012年現在、6万人に激減している〔角岡伸彦『ピストルと荊冠』p.246(講談社、2012年)〕。飛鳥会事件ハンナン事件八尾市入札妨害恐喝事件大阪府同和建設協会談合事件芦原病院問題京都市環境局不祥事奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件などの相次ぐ不祥事を受けて、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部の元幹部は「部落差別はほとんどなくなってるから、解放同盟はもう要らんと思う。別に解放同盟がなくても生活できるやん。結婚差別はまだあるで。でも、それも一部やろ。解放同盟はすでに役割を果たし終えた」と語っている〔角岡伸彦『ピストルと荊冠』p.246-247(講談社、2012年)〕。長年にわたり部落解放同盟と共闘していた灘本昌久もまた「現在、部落解放同盟は野垂れ死に状態になりつつあるが、それは自然となったのではなく、古い運動と理念にしがみついたがための、自業自得の野垂れ死にである」と評している〔自由同和会機関誌『ヒューマンJourmal』第211号、2014年12月。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「部落解放同盟」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Buraku Liberation League 」があります。




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