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若の里忍 : ミニ英和和英辞書
若の里忍[わかのさと しのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り]
 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles 

若の里忍 : ウィキペディア日本語版
若の里忍[わかのさと しのぶ]

若の里 忍(わかのさと しのぶ、1976年7月10日 - )は、青森県弘前市出身で鳴戸部屋(引退時は田子ノ浦部屋)に所属していた元大相撲力士。本名は古川忍(こがわ しのぶ)、愛称はコガワ。現役時代の体格は身長185cm、体重163kg、血液型はO型。
「怪力」として知られ、現役時代は大関の有力候補と言われたが、度重なる大怪我に泣いて大関昇進は果たせなかった。得意手は左四つ、寄り。趣味は野球観戦、イラスト〔小学生時代にコンクールで入賞した経歴があり、絵に対する造詣がある。
: 若の里が似顔絵披露「才能あるんですよ」 nikkansports.com 2013年12月29日18時30分〕。最高位は東関脇
現在は年寄・西岩として、田子ノ浦部屋で後進の指導に当たっている。
== 来歴 ==
1976年7月10日に青森県弘前市で誕生し、丁度元横綱・初代若乃花と生地を同じくした格好となっている。相撲との出会いは小学3年生の頃であり、学校の先生に「相撲の大会があるから出てみろ」と誘われ、そうして初めて出場した地元・弘前市の大会で優勝を収めた。遊び程度の感覚で出場して体の大きさだけで相撲を取っていたが、この時に賞状とメダルをもらい、親や先生に褒められたことで相撲にのめりこんだ。〔西岩親方「今の知識あったら、中学卒業後に角界入りする決断できない」(1/2ページ) SANSPO.COM 2015.12.27 12:00〕10歳ごろから本格的に相撲を始め〔公益財団法人日本相撲協会監修『ハッキヨイ!せきトリくん わくわく大相撲ガイド 寄り切り編』49p〕、小学6年生で鳴戸から「これから部屋を起こすから来ないか」と勧誘された。〔自分の学区の中学校には相撲部が無かったので、家から10km離れたところにある弘前市立第二中学校へ越境通学し、毎日1時間自転車を漕いで通学しながら相撲に励んだ。生地と川を挟んだ同県北津軽郡板柳町出身の高見盛青森市(旧南津軽郡浪岡町)出身の武州山は中学相撲の同学年のライバルだった。
小学生の頃は大相撲に興味のない古川であったが、中学3年生の夏ごろに大相撲の巡業が弘前市で行われ、当時小結の貴花田(のちの横綱・貴乃花)に稽古をつけてもらった。憧れの力士に2番相撲を取らせてもらい、そこから一気に力士になりたいと心が動いた。〔西岩親方「今の知識あったら、中学卒業後に角界入りする決断できない」(1/2ページ) SAMSPO.COM 2015.12.27 12:00〕中学を卒業する前に予てより勧誘のあった鳴戸に呼応して鳴戸部屋に入門し、1992年3月場所に本名の「古川」の四股名で初土俵を踏んだ。初土俵の同期には旭天鵬〔旭天鵬とは引退した場所が1場所違いの2015年9月場所であった。〕、旭鷲山春ノ山駿傑、かつて同部屋だった隆乃若などがいる。入門以降「1日100番を超える」厳しい稽古で鍛えられ〔東奥日報 2014年7月14日〕 、1995年7月場所に幕下に昇進し、1997年3月場所では自身初の幕下優勝を決め、同年11月場所に新十両に昇進すると四股名を「若の里」に改名し、この場所では須佐の湖との優勝決定戦を制し、新十両での十両優勝を決めた〔。この場所以降、最後の出場場所となった2015年7月場所まで関取の座を手放さなかった。〕若の里の四股名は師匠の四股名「隆の里」と大師匠にあたる「若乃花」に由来しており、鳴戸からはそれだけ大器と評され、引退するまで四股名を変えることは無かった。翌1998年5月場所で新入幕を果たし、同年11月場所では11日目に横綱・若乃花に勝ち自身初の金星を獲得した(この場所は14日目から休場したため勝ち越しは果たせなかった)。
その後、度重なる怪我で休場を繰り返すが2000年11月場所では自身初の三役となる小結に昇進し勝ち越すと、翌2001年1月場所では自己最高位でもある関脇に昇進した。この頃から大関昇進の声が上がり始め、2003年11月場所と2005年1月場所の2度、関脇で連続2桁勝利を挙げその場所大関獲りのチャンスを掴んだものの2度共に負け越して失敗し結局大関昇進はならなかった。また、大関取りが期待された2005年1月場所には角番大関の千代大海に勝ち越しを献上してしまうという屈辱を味わった。
2005年9月場所より再び度重なる怪我に襲われ(この場所が自身最後の関脇と三役になった)、2006年11月場所には6年ぶりとなる十両とさらに十両下位の11枚目まで陥落した。十両では格の違いを見せつけるかと思われたが下半身の不安の為思ったほど星が伸びず、1月場所では9日目を終わって4勝5敗と意外な苦戦を強いられる。それでも翌年3月場所には再入幕を果たし、その場所では11勝4敗の好成績を収めた。翌5月場所も10勝5敗と勝ち越したため、7月場所では久方ぶりに上位との対戦が組まれる位置まで上がったものの結局5勝10敗と負け越した。その後も幕内中位では勝ち越しするものの上位では負け越すという状態が続いていた。2009年3月場所11日目、前頭2枚目・琴奨菊に物言いがつきながらも土俵際の捨て身の突き落としで勝った一番で右足を痛め、翌日から途中休場(琴奨菊は負け越し)。翌5月場所は初日から休場したため、3度目となる十両陥落が必至となった〔時事ドットコム - 若の里、右足骨折で休場=大相撲春場所12日目 2009-03-26 閲覧 〕。翌7月場所は十両に下がったものの幕内経験で圧倒的な強さを見せ付け益荒雄の持つ記録(全5回)に次ぐ4回目の十両優勝を果たし、翌9月場所は通算3回目の再入幕となった。2011年11月場所も負傷休場し、2012年1月場所で4度目となる十両へ陥落しているが1場所で幕内に戻った。
同年7月場所では10日目に嘉風に勝ち、通算勝利数が貴乃花の794勝を越えて史上11位となった。翌9月場所2日目に宝富士に勝って通算勝利数を800勝とした。800勝到達は史上10人目。なお、この通算勝利数記録の上位には、若の里と同期で現役の旭天鵬も名を連ねており、この場所中には、史上初となる800勝力士同士の対戦も実現した。さらに、同年11月場所では3日目に朝赤龍の休場による不戦勝で通算勝利数が水戸泉の807勝を越えて史上10位に、また14日目にも北太樹に勝って通算勝利数が高見山の812勝を超えて史上9位となり1場所で2つの通算勝利数の記録を更新した。
2013年3月場所では9日目に嘉風に勝ち、通算勝利数が安芸乃島の822勝を越えて史上8位となった。この場所は9勝6敗と勝ち越した。同年7月場所では常幸龍に勝って幕内勝利数を600勝とした。同年9月場所では初日から7連敗し中日に初勝利をしたが最終的には4勝11敗と大敗し同年11月場所に十両に陥落。場所後に力の衰えを感じた若の里は引退を考えるも、15歳の頃に「1場所でいいから関取に上がりたい」と口にした記憶が頭をよぎったことで初心に返る形で現役続投を決意。〔朝日新聞 2014年7月26日21面〕その場所は13日目に勝ち越しを確定させ最終的には8勝7敗と勝ち越した。
2014年1月場所は膝の内視鏡手術をした影響からか、初日から4連敗するなど振るわず12日目に負け越しを確定させ最終的には5勝10敗の大敗に終わった。同年3月場所では7日目に大道に勝ち、通算勝利数が寺尾の860勝を越えて史上7位となった。この場所は9勝6敗と勝ち越した。同年5月場所では双大竜に勝ち、勝ち越しを確定させたと同時に通算勝利数が大鵬の872勝を越えて史上6位となった。翌7月場所は37歳11ヶ月の年齢で再入幕を果たし、これは昭和以降では歴代5位の高齢記録であったが、この場所は途中で左上腕二頭筋を断裂した影響で力が出ず、5勝10敗の大敗で再び十両へと下がることになった〔ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2014年9月号(秋場所展望号) 52頁、66頁〕。西十両6枚目まで後退した11月場所は十両残留を確定させる4勝を最低限の目標としたが、2日目から5連勝するなど好調であり、この場所は9勝6敗で終えた(この場所が現役最後の勝ち越しとなった〔十両残留へ若の里3連勝「予想以上の出来」 nikkansports.com 2014年11月12日19時40分〕)。
2015年1月場所は西十両筆頭に番付を戻し、勝ち越せば再入幕する可能性もあったが12日目に負け越しを確定させ5勝10敗に終わった。同年3月場所では2日目に大道に勝ち史上6人目となる通算勝利数900勝をしたものの6勝9敗の負け越しに終わった。同年7月場所で西十両11枚目で11日目に負け越しを確定させ、14日目の旭日松に敗れた事で10敗目を喫し幕下陥落がほぼ決定的となり、本場所では現役最後となった千秋楽の一番では天鎧鵬に敗れ、最終的には4勝11敗の大敗を喫して幕下への転落が決定的となると引退を決意するが故郷である青森県で興行される夏巡業〔夏巡業直前の2015年8月17日には父が死去しており、通夜と葬儀・告別式は20日の七戸町での巡業の後に営まれた。
:若の里、父の突然死胸に“最後”の故郷青森巡業  日刊スポーツ 2015年8月19日19時9分〕に参加するために引退表明を先延ばしとし、同年9月3日に現役引退を正式に発表し、年寄・12代西岩を襲名した〔若の里引退 初土俵から23年半 年寄「西岩」襲名 日刊スポーツ 2015年9月3日(2015年9月3日閲覧)〕。なお、番付編成後に引退を決めた為に同年9月場所の番付には東幕下四枚目で名前が残った。引退会見では「好きでこの世界に入りましたので、とても楽しかったです。本音を言えば、まだまだやりたかったですが、もう体がついてきませんでしたので、引退することになりました」と話し「もうケガするところがないくらい、ケガをしました。正直、ケガさえなければなという気持ちもありますけど、逆に言えば、ケガがあったからここまでできたのかなとも思います。ケガに強い体を、もっともっと若いときからつくれば良かったなと思います」と振り返った。直前の青森巡業の前に父が死去したことについては「本当はやっぱり、青森の巡業にも来てほしかったです。これから断髪式もありますので、そういったものにも来てほしかった。なんでもう、こんなに早く亡くなってしまったんだと」とコメント、思い出の一番として1998年9月場所の貴乃花戦と2014年11月場所の輝戦を挙げている。今後の指導にかける意気込みとして「20年間、鳴戸親方に育てていただきましたので、やはり、鳴戸親方の教えというのが、基礎になっていくと思います。稽古場では厳しく、自分たちがやってきたこと、鳴戸親方から教えてもらったことを伝えて行ければと思います」と語った。〔若の里「ケガがあったから」23年力士道/一問一答 日刊スポーツ 2015年9月3日16時57分〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「若の里忍」の詳細全文を読む




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