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義信事件 : ミニ英和和英辞書
義信事件[ぎ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

義信事件 ( リダイレクト:武田義信#義信事件 ) : ウィキペディア日本語版
武田義信[たけだよしのぶ]

武田 義信(たけだ よしのぶ)は、戦国時代武将武田信玄嫡男武田氏を嗣ぐはずであったが、廃嫡された。
== 生涯 ==
天文7年(1538年)、甲斐戦国大名である武田信玄の嫡男として生まれる〔「大聖寺甲斐源氏系図」『山梨県史』資料編6上(県内記録)所載。〕。甲斐統一を果たした武田信虎の孫にあたる。父・晴信は天文5年に公家の三条公頼の娘(三条夫人)を正室に迎えており、『甲陽軍鑑』によればこれには武田氏と同盟関係にあった駿河国今川氏の斡旋があったという。天文19年(1550年)に13歳で元服し、4月8日には駿河の今川義元の娘(従姉妹)を正室に迎えている〔ともに「高白斎記」『山資』6上所載、「高白斎記」は武田家臣駒井政武の原筆と考えられている武田家の記録資料で、義信の祝言にあたる天文22年までの武田家に関する家政記事や対外情勢が記されている。また、武田氏と今川氏は晴信・義元の前代において和睦し同盟関係にあり、晴信・義元期には相模国後北条氏との同盟が成立し甲相駿三国同盟となるが、義信正室に義元の娘が迎えられたこともその一環であると考えられている〕。傅役飯富虎昌(『甲陽軍鑑』)。天文21年(1552年)8月には具足始が行われる(「高白斎記」)。
翌天文22年(1553年)12月29日には、武田氏歴代の中で初めて室町幕府将軍の足利義藤(後の義輝)より足利将軍家および清和源氏通字である「義」の偏諱を受けて義信と名乗り、甲府館内には居所として西曲輪が増設されている(「高白斎記」)。
初陣は天文23年(1554年)の信濃国佐久郡知久氏攻め〔「勝山記」『戦国遺文武田氏編』414号文書)〕。
この初陣では義信は、佐久郡の知久氏の反乱を鎮圧すると、小諸城も降伏させ、内山城の軍勢を率いて落武者三百人を討ち取っているなど大活躍している。 
永禄元年(1558年)に晴信が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けており、『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)の第4回川中島の戦いにおいても出陣して武功を挙げただけ記載されているが、『越後野志』に拠れば、義信の川中島での戦い振り〔「越後野志」『下巻』)〕は凄まじく、永禄4年9月の会戦の際に、上杉軍が武田軍を蹴散らした上杉謙信の本陣が一休みしていると、
武田太郎義信が八百の兵を率い、武田軍の旗を伏せ、腰差しをして密かに葦の中を伝い、不意に謙信の本陣を襲撃し、不意をつかれた謙信の旗本は、過半数が敗走し、この時老臣の志田源四郎義時・大川駿河守高重が討死、謙信も家宝の鍔鑓を用いて防戦する有様であった。まさに三軍が敗走かという時、色部修理亮長実が五百人、宇佐美定満が千余人を率いて馳せ参じ、義信軍を挟み撃ちにし、旗本隊と共に義信軍をようやく広瀬の渡しまで追い返したと書かれており、敵方の資料に書かれている内容から考えると、武勇、軍略共に、抜群の将であった事が推察される。
永禄8年(1565年)10月には信玄暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉され(『甲陽軍鑑』)、永禄10年(1567年)10月19日には東光寺で死去した、享年30〔「武田源氏一流系図」『山資』6下(県外記録)所載、「十輪院武田家過去帳」『山資』6下所載、義信事件については後述。〕。同年11月に義信正室は駿河へ帰国している(『上越市史』)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「武田義信」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takeda Yoshinobu 」があります。




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