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立原道造 : ミニ英和和英辞書
立原道造[たちはら みちぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

立原道造 : ウィキペディア日本語版
立原道造[たちはら みちぞう]

立原 道造(たちはら みちぞう、1914年大正3年)7月30日 - 1939年昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。父は立原貞次郎(婿養子)、母は立原登免(通称 光子)。次男として生まれる。先祖には立原翠軒立原杏所などがいる。学歴東京帝国大学工学部建築学科卒業。学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。戒名は温恭院紫雲道範清信士。東京都谷中の多宝院。賞歴は、辰野賞3年連続受賞、中原中也賞受賞。
== 生涯 ==

1914年(大正3年)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:中央区東日本橋)に生まれる。家系桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏一門 鹿島氏庶流 立原氏。近い祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいるという。1927年(昭和2年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した〔 神保光太郎「立原道造の生涯ー覚え書として」(『四季』立原道造追悼號(1939年7月))〕1931年(昭和6年)、短歌の倶楽部に入部した道造は『詩歌』に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。翌1932年(昭和7年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。高校最後の年を迎えた1933年(昭和8年)、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作、翌年には東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)まで岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった〔『立原道造と生田勉―建築へのメッセージ』 立原道造記念館(1998年3月)〕。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した。大学卒業年次を迎えた1936年(昭和11年)、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。
1937年(昭和12年)、石本建築事務所〔岸田日出刀「立原道造君のことども」(『四季』立原道造追悼號(1939年7月))によれば、石本より「設計の堪能な人」を求められ、岸田が立原を推薦した。〕に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。1939年(昭和14年)、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したが、同年3月29日午前2時20分、結核のため24歳で没した。
詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄高木東六高田三郎三善晃などが作曲している。〔『国文学解釈と鑑賞』別冊立原道造特集(2001年5月)掲載「立原道造の詩による作曲一覧」〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「立原道造」の詳細全文を読む




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