翻訳と辞書
Words near each other
・ 丸龜市
・ 丸龜町
・ 丸龜藩
・ 丹
・ 丹まさと
・ 丹ロウ県
・ 丹上
・ 丹下ウメ
・ 丹下キヨ子
・ 丹下スズキ
丹下健三
・ 丹下健太
・ 丹下博之
・ 丹下和彦
・ 丹下左膳
・ 丹下左膳 (1958年の映画)
・ 丹下左膳 (1965年のテレビドラマ)
・ 丹下左膳 (1967年のテレビドラマ)
・ 丹下左膳 (1970年のテレビドラマ)
・ 丹下左膳 剣風!百万両の壺


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

丹下健三 : ミニ英和和英辞書
丹下健三[たんげ けんぞう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たん, に]
 【名詞】 1. red 2. red earth 
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)
: [けん]
 【名詞】 1. health 2. strength 3. stick-to-itiveness 
: [み]
  1. (num) three 

丹下健三 : ウィキペディア日本語版
丹下健三[たんげ けんぞう]

丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年大正2年9月4日 - 2005年平成17年3月22日)は日本建築家都市計画家一級建築士(登録番号第15182号)。
日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。また磯崎新黒川紀章槇文彦谷口吉生などの世界的建築家を育成した。位階勲等従三位勲一等瑞宝章文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。
== 年譜 ==

* 1913年大正2年) 丹下辰世(ときよ)とテイ(禎・禎子)の三男〔先妻との間に2男1女があり、先妻の病没後に後添えとして入って2男2女をもうけたテイにとっては、第2子にして初めての男子にあたる。〕として大阪府堺市に生まれる。住友銀行社員であった父の転勤によって生後まもなく中国漢口へ。数年後さらに上海イギリス租界に移り住む。
* 1918年(大正7年) 上海・日本尋常小学校入学。
* 1920年(大正9年) 父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住。今治の第二尋常小学校(現・今治市立美須賀小学校)に編入。
* 1926年(大正15年) 旧制今治中学(現・今治西高校)入学。
* 1930年昭和5年) 今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現・広島大学)理科甲類に進学。同校図書室で見た外国雑誌のル・コルビュジエの記事に感銘を受け建築家を志す。ル・コルビュジエを通して一時傾倒していたマルクス主義から実存主義に転向する〔丹下健三+藤森照信『丹下健三』(新建築社、2002)〕。
* 1933年(昭和8年)~1934年(昭和9年) 東京帝国大学建築科の受験に2度失敗。東北帝国大学金属学科に毎年1~2名の欠員が出ると聞き受験するも、丹下が受けた年に限りたまたま1人だけ定員を超えており、丹下のみが落第する。徴兵逃れのため日本大学芸術学部映画学科に在籍したがほとんど登校せず、ヴァレリージードプルーストドストエフスキーヘーゲルハイデッガーなどを読み耽り、名曲喫茶で友人と語り合い、バーに出没した。「なぜ二年間にもなったかといえば、多感な青春時代、情熱をもって取り組む対象がどうしても文学だとか芸術だとかに偏してしまったから、ということにしておきたい」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.25)。丹下はまた「日大の映画科には籍を置いたままで終わった。しかし、私は映画には大変興味を持っていて、そのころからしきりに言われた「総合芸術」に取り組んでみようと思ったことがあったのも事実である」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.27)とも述べている。同時期の日大芸術学部には黒澤明がいたとする資料もある〔草柳大蔵『新・実力者の条件』p.271(文藝春秋社、1972年)〕。
* 1935年(昭和10年) 東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築科に入学。内田祥三岸田日出刀武藤清に師事。1学年上に立原道造が在籍していた。
* 1938年(昭和13年) 東京帝国大学工学部建築科より辰野賞を受賞。東京帝国大学工学部建築科卒業後、前川國男建築事務所に入所。当時の担当作品に岸記念体育会館(初代)があるが現存しない。
* 1941年(昭和16年) 東京帝国大学大学院に入学。
* 1942年(昭和17年) 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。
* 1946年(昭和21年) 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。
* 1951年(昭和26年) CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、ロンドン広島計画を発表。初めての日本国外旅行となる。
* 1954年(昭和29年) 日本建築学会作品賞(愛媛県民館)。以後同賞受賞がつづく(1955年図書印刷原町工場、1958年倉吉市庁舎)。
* 1958年(昭和33年) 建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞受賞。
* 1959年(昭和34年) 東京大学より工学博士の学位を受ける。博士論文は「大都市の地域構造と建築形態」。
* 1963年(昭和38年) 新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任。
* 1965年(昭和40年) 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)。RIBAゴールドメダル受賞。
* 1966年(昭和41年) AIAゴールドメダル受賞。
* 1970年(昭和45年) ローマ法王庁聖グレゴリオ大勲章受章。
* 1973年(昭和48年) 建築アカデミー ゴールドメダル受賞。
* 1974年(昭和49年) 東京大学を定年退官、名誉教授となる。
* 1976年(昭和51年) 政府プール・ル・メリット勲章。
* 1979年(昭和54年) 国家有功勲章コメンダトーレ章。
* 1980年(昭和55年) 文化勲章受章。
* 1986年(昭和61年) 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)。
* 1987年(昭和62年) プリツカー賞受賞。新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで)
* 1993年平成5年) 高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞。
* 1994年(平成6年) 勲一等瑞宝章受章。
* 1996年(平成8年) レジオンドヌール勲章受章。
* 2005年(平成17年) 3月22日死去(91歳)。従三位

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「丹下健三」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.