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福田晴一 : ミニ英和和英辞書
福田晴一[ふくだ せいいち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふく]
 【名詞】 1. good fortune 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [いち]
  1. (num) one 

福田晴一 : ウィキペディア日本語版
福田晴一[ふくだ せいいち]

福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督脚本家である〔キネ旬, p.338-339.〕〔田中, p.85-86.〕〔年鑑, p.330-333.〕〔年鑑, p.137-139, 170, 373.〕〔渡辺支配人のおしゃべりシネマ館「福田晴一監督の二等兵物語」 渡辺俊雄日本放送協会、2012年7月23日付、2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''、''jlogos.com'', エア、2014年8月28日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''・''船橋一''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''・''船橋一''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''KINENOTE, 2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''・''船橋一''allcinema, 2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''・''船橋一''日本映画データベース、2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''テレビドラマデータベース、2014年8月28日閲覧。〕〔''福田晴一''デジタル・ミーム、2014年8月28日閲覧。〕。別名船橋 一(ふなばし はじめ)〔〔〔〔〔。1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画松竹京都撮影所と移る〔〔。第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける〔〔〔〔〔。1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・も手がけた〔〔〔〔〔。
== 人物・来歴 ==
1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる〔〔〔〔〔〔。同地は、明治時代に開業した北千住駅の西口駅前に位置し、福田の幼少時から青年期にかけて、周囲には複数の映画館が存在した〔総覧, p.557.〕〔年鑑, p.10-32.〕。幼少時から映画界に憧れ〔、旧制・蔵前高等工業学校(現在の東京工業大学建築科在学中、1935年(昭和10年)5月に日本で公開された『』〔, 2014年8月28日閲覧。〕の監督ジャック・フェデーに憧れ、映画界入りへの思いを抱いたという〔。
1937年(昭和12年)3月、同校を卒業、1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所に入社する〔〔。内田吐夢〔、2014年8月28日閲覧。〕、島耕二〔、2014年8月28日閲覧。〕らに助監督として師事していたが、1941年(昭和16年)に全勝キネマ松竹が買収して設立した興亜映画に内田が移籍、福田はそれとともに同社へ移籍する〔。同年11月、興亜映画が興行会社に業態を変更したのにともない、内田とともに太秦の松竹京都撮影所に転籍している〔。第二次世界大戦が始まり、翌1942年(昭和17年)1月10日には、日活等が戦時統合を行い大映を設立しているが、このころ福田は、内田のほか、田坂具隆〔、2014年8月28日閲覧。〕の作品等の助監督を務めていた〔。戦局も押し迫った1944年(昭和19年)6月、満27歳の福田は召集を受けて海軍補充兵として入営、サイパングアムトラック島といった南洋の激戦地を転戦した〔。
1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦は終了したが、福田が復員後、職場に復帰したのは1946年(昭和21年)6月、満29歳のときであった〔。その後、『長崎物語』(大曾根辰夫〔、2014年8月28日閲覧。〕、1947年12月18日公開)等の作品で助監督を務めた〔。1950年(昭和25年)1月29日、結婚した〔。チーフ助監督に昇進して記録に残っているのは、『あゝ青春』(監督佐分利信、1951年6月15日公開)、『稲妻草紙』(監督稲垣浩、1951年12月30日公開)、『丹下左膳』(監督松田定次、1952年8月14日公開)等である〔。助監督の身分のまま、1952年(昭和27年)に短篇映画を2本、1954年(昭和29年)2月17日には初めて監督した長篇劇映画『風来坊』が公開されており、同年9月には正式に監督に昇進し、同年12月8日に公開された『伝七捕物帳 黄金弁天』が公式な監督第一作である〔〔〔〔。高田浩吉が主演した「伝七捕物帳シリーズ」は全12作のうち7作、翌1955年(昭和30年)から始まる伴淳三郎花菱アチャコ主演の「二等兵物語シリーズ」は全10作のうち9作、それぞれ福田が監督した〔〔〔〔。同年、師の内田吐夢が長いシベリア抑留から帰国、東映京都撮影所で『血槍富士』を監督することになり、13年ぶりに再会した〔。このとき内田は福田に「演出の心がまえとは?」と問い、福田は「当分は、安くて早くておもしろい作品を」と答えたという〔。1960年(昭和35年)10月12日に放映を開始したオムニバステレビ映画十字路』全12話では、第1話と最終話のほか第5話も監督した〔。劇場用映画38作を監督して、1962年(昭和37年)6月、満45歳のときに松竹を退社した〔。
フリーランスになってからは、宝塚映画製作所が製作し、1965年(昭和40年)1月6日 - 同年3月31日に放映された連続テレビ映画『剣は知っていた』(原作柴田錬三郎、脚本藤本義一)を監督している〔。1941年以来、出征中を挟んで24年間、仕事の中心地であった関西を離れて、同年中に関東に戻り、独立系成人映画の世界に踏み出す〔〔〔〔〔〔〔〔。第一作は、元新東宝小森白のKPC(のちの東京興映)、同じく寺坂徹の寺坂プロダクションが共同で製作し、新東宝関西支社の後身である新東宝映画が配給、翌1966年(昭和41年)1月に公開された牧和子(のちの松井康子)主演作、『爛熟』である〔〔〔〔〔。協立映画が製作、日本シネマフィルム(日本シネマ)が配給して同年6月に公開された香取環の主演作『産婦人科日記より 悪徳医』はヒットし、シリーズ化した〔〔〔〔〔。続篇として製作され、翌1967年(昭和42年)5月23日に公開された左京未知子主演作『続悪徳医 女医篇』〔〔〔〔は、「マダム・オー」()の題名で1970年(昭和45年)には米国で公開されている〔。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三小林悟新藤孝衛糸文弘小川欽也小森白山本晋也湯浅浪男宮口圭深田金之助藤田潤一小倉泰美浅野辰雄渡辺護、片岡均(水野洽の変名)とともに、福田の名を挙げている〔。福田は27作の成人映画を短期間に量産した〔〔〔〔〔〔。
1969年(昭和44年)8月、台湾に渡り、國民教育電影が製作する映画『龍王子』を監督した〔〔黃, p.240.〕。同年11月に関東映配が配給して公開された『肉ずき』を最後にしばらく成人映画を離れ、1971年(昭和46年)5月に公開された青山美沙主演作『衝撃の性告白 交換の罠』〔については、船橋 一の名でクレジットされた〔〔〔。当時福田は、千葉県船橋市に住み、以降、同市内で暮らした〔〔〔年鑑, p.372.〕。以降、成人映画の世界を去り、同年10月、翌1972年(昭和47年)7月の二回、インドネシアに滞在、現地での映画製作に取り組んだ〔。
1996年(平成8年)5月11日、呼吸不全のため千葉県船橋市内の病院で死去した〔〔〔。満79歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「福田晴一」の詳細全文を読む




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