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南部泰三 : ミニ英和和英辞書
南部泰三[なんぶ たいぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
南部 : [なんぶ]
 【名詞】 1. southern part 
: [たい]
 【名詞】 1. Thailand  
: [み]
  1. (num) three 

南部泰三 : ウィキペディア日本語版
南部泰三[なんぶ たいぞう]

南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサーである〔キネ旬, p.294.〕〔田中, p.85-86.〕〔''南部泰三''、''jlogos.com'', エア、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''・''松角知己男''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''KINENOTE, 2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''・''松角知巳男''日本映画データベース、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''デジタル・ミーム、2014年8月21日閲覧。〕。本名は松角 知己男(まつかど ちきお)〔〔。1936年(昭和11年)に大都映画に入社して助監督となり、その後、大毎東日映画部日本映画社満洲映画協会を経て、第二次世界大戦後に独立した〔。1964年(昭和39年)から成人映画を手がけ、黎明期の作家とされる〔。第八芸術映画プロダクション代表、「亜細亜文化振興会」情報部長を歴任した〔。
== 人物・来歴 ==
1916年(大正5年)4月13日、長崎県北高来郡湯江村(現在の同県諫早市高来町湯江)に生まれる〔〔。叔父に新国劇理事を経て、戦後、東宝取締役、東宝舞台代表取締役社長を歴任した俵藤丈夫(1893年 - 1964年)〔, 2014年8月21日閲覧。〕がいる〔。
旧制・長崎県立諫早中学校(現在の長崎県立諫早高等学校)に進学し、1933年(昭和8年)3月に四年次修了をもって東京に移り、同年4月、東京府豊多摩郡和田堀内村(現在の東京都杉並区)にある旧制・高千穂高等商業学校(現在の高千穂大学)に入学する〔。このとき満17歳であった南部は、映画・演劇に興味を抱き、同校に在籍しながら、神田区三崎町(現在の千代田区三崎町)にあった日本大学法文学部文学科芸術学専攻(現在の日本大学藝術学部)の聴講生になる〔。
1936年(昭和11年)3月、高千穂高等商業学校を第25回生として卒業〔高千穂, p.750.〕するとともに、叔父の俵藤丈夫の紹介を得て、同年4月、大都映画に入社する〔。演出部に配属され、助監督として大伴麟三(当時は龍三)、石山稔益田晴夫らに師事する〔。1940年(昭和15年)には大毎東日映画部(現在の毎日映画社)に移籍し、ニュース映画文化映画に携わる〔。同社は同年4月には戦時統制のため日本ニュース映画社(のちの日本映画社)に統合されており、この時期に本名の松角 知己男の名で監督に昇進、短篇映画『国民強歩行軍譜・歩け歩け』を伊奈太郎と共同で監督したが、同作が公開されたのは1941年(昭和16年)12月11日であった〔。1942年(昭和17年)には日本映画社の海外版製作部に異動になったが、翌1943年(昭和18年)には満洲映画協会(満映)に移籍し、大陸へ渡る〔。1944年(昭和19年)に結婚した〔。
1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦は終了したが、南部が内地へ引き上げてきたのは1949年(昭和24年)であった〔。同年10月、映画製作会社・東芸映画プロダクションを設立する〔〔。この時期の監督作はいずれも本名で発表しており、1951年(昭和26年)8月28日に公開された『肉体の幻想』、1954年(昭和29年)3月16日に完成した『裸になった蝶々さん』の2作の短篇映画が記録に残っている〔。1960年(昭和35年)には『危険な火遊び』を新東宝の当時の社長であった大蔵貢の意向を受けて製作、監督したが、同年12月1日に大蔵が退陣したことを受けて、同社は買い取りを見送り、公開が見送られた。同作のクレジットは南部 泰三であった〔。同作と洋画短篇二本を組み合わせて「世界悩殺特集」として公開したとする資料も存在するが、公開日は不明である〔泉, p.164.〕。
1964年(昭和39年)4月、南部は自社の社名を第八芸術映画プロダクションと改称、製作だけでなく自社配給も行うようになる〔。同年、『女体難破船』を製作・監督、日本シネマの配給により同年6月26日に公開されたが、これが南部の最初の成人映画である〔〔〔。以降、1966年(昭和41年)4月に公開された『赤い渦』までの2年間、朝日陽子湯川美沙をおもに主演に起用して、14本の成人映画を量産した〔〔〔〔〔。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、小林悟新藤孝衛糸文弘小川欽也小森白山本晋也湯浅浪男宮口圭深田金之助藤田潤一小倉泰美浅野辰雄渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、南部の名を挙げている〔。渡辺護は、南部の監督作のうち『殺られた女』、『悶える女子学生』、『ただれた愛欲』のチーフ助監督を務めたという〔渡辺護「おれが南部泰三の助監督をやったやつは 井川耕一郎twitter, 2014年8月21日閲覧。〕。渡辺によれば、南部は「もう裸があれば評判になる。それがあれば、この映画はいいんだから、あとの芝居なんかどうでもいい」という考えであったという〔(井川)渡辺護さんは、助監督として南部泰三『殺られた女』(64)についたとき 、井川耕一郎、twitter, 2014年8月21日閲覧。〕。
1965年(昭和40年)には、東南アジアを視野に置いた、映画やテレビの人材を養成するために「第八芸術集団」を設立し、劇場用の成人映画の製作に並行し、記録映画・PR映画も並行して製作した〔。1967年(昭和42年)には台湾に渡り、『霧夜香港』を何基明と共同で監督、同作は同年2月19日に台湾で公開されている〔電影, p.402.〕。同作には台湾の俳優のほか、日本から山田美恵子、大西康子〔、2014年8月21日閲覧。〕らが出演した〔。
1971年(昭和46年)以降の作品が不明であるが、1976年(昭和51年)12月24日に発行された『日本映画監督全集』の南部の項には、新宿区北新宿の所在地が書かれており、満60歳の当時は存命であったとされる〔。以降の消息は不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「南部泰三」の詳細全文を読む




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