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サイパンの戦い : ミニ英和和英辞書
サイパンの戦い[さいぱんのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

サイパンの戦い : ウィキペディア日本語版
サイパンの戦い[さいぱんのたたかい]

サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は、太平洋戦争大東亜戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍日本軍マリアナ諸島サイパン島における戦闘斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団第4海兵師団、が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日〜20日)が発生した。
== 背景 ==

=== 日本軍の事情 ===

1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)前半にかけて連合国軍はソロモン諸島ギルバート諸島マーシャル諸島に侵攻し、ニューギニア島北岸を東から西へと飛び石作戦で攻略しつつ、カロリン諸島パラオ諸島マリアナ諸島へ迫った。
マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29が展開すれば東京など日本本土の大部分を攻撃圏内に収めることができる位置にあるため、戦略的に重要であった。アメリカ軍は中国の成都市にもB-29を進出させており、1944年6月16日の八幡空襲を皮切りに日本本土空襲を開始する直前の状態であったが、成都からでは九州など西日本の一部しか攻撃できなかった。もし、マリアナからの本土空襲が始まれば日本は関東の工業地帯を破壊され、さらには民間人に大量の死者を出すことや国民の士気が低下して戦争継続が困難となることが予想された。
日本軍もマリアナ諸島の重要性は認識しており、1943年9月末に大本営絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点とした。日本海軍は絶対国防圏よりも遠方での艦隊決戦を重視したため、マリアナ諸島の防備強化はなかなか進まなかったが、アメリカ軍の侵攻が差し迫った1944年初頭になって慌てて防備強化が図られた。サイパン島にも南部にアスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)、西岸タナパグ水上機基地、最高峰タッポーチョ山(標高473m)に電探を置くなど、軍事施設を整備していった〔歴史群像 2002年4月号(学研パブリッシング)サイパン防衛戦〕。
一方、海軍の担当地域であり、また補給上の観点からも、それまでは太平洋正面への大規模な兵力派遣を嫌がっていた日本陸軍も、中部太平洋の島嶼に大陸、日本本土から旅団師団規模の部隊の展開を本格的に開始する。マリアナ諸島には関東軍から第29師団 (師団長:高品彪中将)が送られたが、この時期になるとマリアナ諸島の防衛は1個師団で事足りるとは考えられなくなっており、松輸送の名の下に本土から第43師団(師団長:斎藤義次中将)などがサイパンに派遣された。松輸送は期待以上の成功を収め、戦車連隊や第43師団の第一陣は無事到着した。しかし敵潜水艦の雷撃によって第43師団の第二陣を輸送中の第3530船団は大損害を受け、サイパンに到着できたのは歩兵第18連隊で半分にも満たず、歩兵第118連隊は丸腰の将兵が1/3だけなど、戦場に辿り着く前に約1万名が大量の物資と共に海の藻屑と消えた。
現地で増援部隊の一部は再編成され、独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)が編成されている。海軍の陸上部隊としては、第5根拠地隊の下に第55警備隊(司令:高島三治大佐)などが置かれている。
日本陸軍は1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成、マリアナ諸島やカロリン諸島西部の指揮を担当させることにした。第31軍は司令部をサイパン島に置いて、テニアン以北を担当する北部マリアナ地区集団(指揮官:斎藤義次第43師団長)と、ロタ以南を担当する南部マリアナ地区集団(指揮官:高品彪第29師団長)を持ち、マリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入って、中部太平洋方面艦隊(司令長官:南雲忠一中将)の指揮を受ける形式になったが、実際には陸海軍部隊の指揮はそれぞれの司令部により行われた。第43師団は北部マリアナ地区集団に組み込まれてサイパン守備を受け持ち、第29師団は南部マリアナ地区集団の主力としてグアムに配置された〔歴史群像シリーズ 決定版太平洋戦争⑥「絶対国防圏」の攻防(学研パブリッシング、2010年)110〜118頁 マリアナ諸島攻防戦〕。
このほかサイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれており、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵中将ら高級指揮官が集中していた。
こうしてマリアナ諸島には大本営が満足すべき兵力が展開できつつあった。
日本軍の守備計画は、水際作戦による上陸部隊撃破に主眼が置かれていた。山がちなサイパンは断崖続きで周囲をリーフに覆われており、大部隊の上陸に適している平坦な海浜は南部西岸に位置するガラパンからチャラン・カノアまでの約40kmに渡る海岸線しかない。そのため、この海岸地帯への防衛線構築が優先され、戦車などを投入した大規模な反撃も計画していた。サイパン島の兵力密度は1平方キロメートル当たり約236名、上陸可能な海岸に対する火力密度は1キロ当り6.5門となり、大本営陸軍部参謀本部)作戦課長の服部卓四郎大佐は「たとえ海軍航空がゼロになっても敵を叩き出せる」と称した〔。
確かに絶対国防圏が設定されてからサイパンには地上部隊が五月雨式に送り込まれていたのだが、実際はアメリカ軍潜水艦のウルフパックにより輸送中の部隊や物資が海没したり、到着した部隊もパラオやテニアン、グアムなどに転用されることが度々であった。
さらに日本海軍は築城よりも飛行場の建設、整備を重視したため、早期に到着した部隊もアスリート飛行場の拡張や北部のパナデル飛行場の建設に駆り出されることが多く、潜水艦攻撃で補給が滞ってただでさえ少ないセメントや鋼材などの資材も飛行場に優先されて、陣地造営へ充てる人的、物的余裕はなかった。
中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワマーシャルトラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。日本海軍は、アメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に西カロリン、そしてパラオへと侵攻し、それからパラオを経由して次にフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、敵艦隊に決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号作戦」を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、マリアナ諸島にも零式艦上戦闘機(サイパンに第261海軍航空隊第265海軍航空隊、テニアンに第343海軍航空隊、グアムに第202海軍航空隊第263海軍航空隊)、月光(テニアンに第321海軍航空隊)、彗星(テニアンに第121海軍航空隊第523海軍航空隊)、天山(グアムに第551海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(テニアンに第761海軍航空隊、グアムに第755海軍航空隊)、銀河 (グアムに第521海軍航空隊)が分遣された。
日本側の予想に沿うように5月27日、西部ニューギニア沖合のビアク島にアメリカ軍(ダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍)が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和武蔵戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとした〔。
これらは、日本陸海軍上層部の多くが「アメリカ軍はいずれマリアナに来るが、それはパラオに来寇した後で、時期としては1944年末」と見ていたことに起因する〔。海軍乙事件が発生する前の古賀峯一連合艦隊司令長官新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ダグラス・マッカーサー軍とチェスター・ニミッツ軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていたが、海軍乙事件の連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号作戦」として決戦構想がつくられた〔別冊歴史読本50 日本の戦争(新人物往来社、2006年)156頁〕。
これら大本営の間違った情勢判断から、主力の第43師団がサイパンに到着して配置が決まったのがアメリカ軍上陸の僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。
日本の委任統治領だった関係でサイパン島には日本の民間人多数が戦前から居住しており、情勢の悪化に伴い5000人が本土へ疎開したものの、約2万人がアメリカ軍上陸時にも在島していた(詳細は#島民及び日本人入植者で後述)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サイパンの戦い」の詳細全文を読む




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