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八幡空襲 : ミニ英和和英辞書
八幡空襲[やはたくうしゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やつ]
 (num) eight
八幡 : [はちまん]
  1. (adv,n) God of War 2. Hachiman 
: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
空襲 : [くうしゅう]
  1. (n,vs) air-raid 

八幡空襲 : ウィキペディア日本語版
八幡空襲[やはたくうしゅう]

八幡空襲(やはたくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1944年6月16日未明、アメリカ陸軍航空軍第58爆撃団戦略爆撃機B-29が陸上基地を拠点として行った初めての日本本土空襲九州北部の官営八幡製鐵所を第一目標として計75機のB-29が出撃し、うち47機が八幡などを爆撃した。八幡製鐵所の被害は極僅かであったが、爆撃は北九州5都市(八幡、小倉戸畑門司若松)におよび、270名以上が犠牲となった。なお、米軍側報告では作戦中の事故により5機のB-29が損失、2機が日本軍機により撃墜とされた。これに対し、日本側報告では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機、日本側被弾機1機と報じられた〔樫出(2005)、p.51〕。
爆撃目標とした八幡製鐵所コークス炉への命中弾はなく〔森山(2007)、p.28〕、空襲自体は不首尾に終わったが、同日サイパン島に米海軍の上陸を許したこともあり(サイパン島の戦い)、大本営は八幡空襲の報に衝撃を受けた〔前田(2006)、p.486〕。一方でアメリカや中国ではこの空襲の成果が大々的に報道された〔工藤・奥住(2008)、p.29〕〔前田(2006)、p.488〕。作戦中B-29の収集した情報によって日本本土の防空体制の脆弱さが明らかとなり、その後の大規模な本土空襲の発端ともなった。
なお八幡市は、1944年8月20日に中国から飛来したB-29によって2度目の空襲を受けている。さらに翌1945年8月8日の3度目の空襲ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、市街地は壊滅的な被害を被った。
== 背景 ==
アメリカ陸軍航空軍による最初の日本本土空襲は、1942年4月18日、空母「ホーネット」から発艦した16機のB-25双発中型爆撃機が東京などを爆撃したドーリットル空襲である。この空襲による日本側の損害は軽微であったが、アメリカ国民の間には大きな反響を呼び起こした〔工藤・奥住(2008)、p.1〕。日本軍は本土が空襲されたことに危機感を覚え、本土基地の防空用戦闘機の機数を増強し、また太平洋戦域において攻勢に出ることで対応しようとしたが、それも6月のミッドウェー海戦での敗北により頓挫した。一方のアメリカ陸空軍も、この空襲の後B-29が運用可能となるまでの間は、他に中国内陸部の基地から日本本土まで往復するのに十分な航続距離をもつ航空機がなったため、日本本土へ空襲をしかけることはできなかった〔Correll (2009), p. 62〕。
B-29の運用開始には困難が伴った。機体の設計は1940年初頭から始まり、最初の試作機は1942年9月21日に完成した。「スーパーフォートレス(超空の要塞)」のニックネームを持つこの機体は、第二次世界大戦中最大の爆撃機であり、当時最大の爆弾搭載量と最長の航続距離、また強力な防御砲火を誇った〔Polmar (2004), pp. 4–5〕。また与圧室や機銃砲塔の遠隔操作、火器管制装置といった当時の最新技術が導入されている。アメリカ陸空軍は初飛行に先立ってB-29を1,664機発注したが、1943年2月18日2機目の試作機が墜落したことで開発にさらに数か月を要することとなった。一方でこの間に機体設計上の問題は少しずつ改善された〔Cate (1953), pp. 6–8〕。1943年6月に設立された第58爆撃団(第58爆撃航空団)はアメリカ陸空軍初のB-29を運用する部隊であったが、実際に機体を受領したのは10月になってからであった。B-29配備の遅れと機体のトラブルのため、爆撃航空団は訓練スケジュールにも支障をきたす有様であった。なおB-29が実戦配備が可能となったのは、1944年3月、後に「バトル・オブ・カンザス」と呼ばれる、戦闘に即応しうる機体を生産する計画が始まってからのことである〔Cate (1953), pp. 52–57〕。
1943年末、アメリカ軍統合参謀本部は、インド基地及び建設予定の中国大陸基地にB-29を配備し、日本本土及び東アジア方面へ戦略爆撃を行う計画を承認した。マッターホーン作戦と命名されたこの戦略爆撃計画の実行にあたっては、インド東部ベンガル基地から出発したB-29が、日本爆撃の際に給油を受けられるよう、連合国軍の貨物輸送機によって中国内陸部の成都近郊に大規模な飛行場を建設することが必要とされた〔Correll (2009), pp. 62–63〕。1943年12月、作戦遂行の任務を受けた第20爆撃集団はアメリカ本土から海路インドへと移動した〔Cate (1953), pp. 75–79〕〔Tillman (2010), p. 41〕。さらに1944年4月にはB-29全機の作戦行動を監督するために第20空軍が編成された。前例のない手段ではあったが、アメリカ陸軍航空軍司令ヘンリー・アーノルド大将はこの部隊をペンタゴンから指揮した〔Tillman (2010), p. 45〕。なお第20爆撃集団の主力である第58爆撃航空団は、4月にカンザス州からの移動を開始したが、インドに到着したのは5月中旬になってからであった〔Tillman (2010), pp. 43–44〕。この部隊は、出発時にはまだ訓練の途中ではあったが、新設されたアメリカ陸軍航空軍爆撃航空団の中では最も経験を積んだ部隊であった〔Cate (1953), p. 57〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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