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田沼意誠 : ミニ英和和英辞書
田沼意誠[たぬま おきのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ぬま]
  1. (n,n-suf) swamp 2. bog 3. pond 4. lake 
: [まこと]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

田沼意誠 : ウィキペディア日本語版
田沼意誠[たぬま おきのぶ]

田沼 意誠(たぬま おきのぶ、1721年享保6年) - 1774年1月30日安永2年12月19日)〔『新訂寛政重修諸家譜』18〕)は、江戸時代中期の幕臣旗本)。田沼意行の次男。田沼意次の弟。妻は一橋家家老伊丹直賢の孫。子に一橋家家老から幕府御側御用取次まで昇進した意致、および石谷清定の養子となった石谷清豊〔藤田覚『田沼時代』吉川弘文館、2012年〕などがいる。
== 来歴 ==
徳川吉宗側衆であった父意行の次男として生まれる。吉宗が幕政を主導するために引き入れた紀州系幕臣としては第二世代目に当たる。1732年享保17年)に徳川宗尹の小姓となる。1736年元文元年)200俵取りとなり、後の御三卿の一つとなる一橋家に以後死去まで仕えることとなる。1746年(延享3年)、一橋家附切となる〔武子裕美「御三卿の家臣団構造」2011年3月(『学習院史学49』学習院大学史学会)〕。1759年宝暦9年)に知行500石となり、2月9日には一橋家の家老に昇進、従五位下能登守に叙任した。1770年明和7年)に300石を加増され、800石の旗本となった〔藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007年〕。意誠が長く勤めた一橋家家老職には、1779年(安永7年)7月28日に子の意致目付から就任している〔山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)〕。
田沼時代に権勢を誇った田沼意次の弟であり、意誠と子の意致はともに一橋家家老を歴任した。薩摩藩1762年(宝暦12年)2月に焼失した江戸上屋敷再建のために、江戸幕府より拝借金を得ようとしたが、この時には意誠を通じて一橋家へ工作を行った。仙台藩伊達重村が中将への昇進工作をした時に1765年(明和2年)6月30日に重村の側役古田良智が田沼意次の用人・井上寛司に面会したときにも意誠が仲介を依頼されていた〔。1770年(明和7年)に福井藩に対して大坂の大名貸し商人15軒から貸付が行われた件(目標の3万両は達成できず)は大坂町奉行所の強い斡旋があり、これは福井藩が一橋家へ運動を行った結果であり、意次に通じる弟意誠のパイプが利用されていたと考えられる〔高槻泰郎「幕府米切手統制策と大阪金融市場-田沼意次の金融行政-」2010年9月(『兼松セミナー 2010年度』神戸大学経済研究所)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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